今日もワールドメイトで聞いたお話です。昨日書いたものを読んでいただいているという前提で書きますが、昨日は神様のおかげ(証)というものに関して、人間の尺度と神様の尺度の違いとか、について書きました。何気ない内容なんですけども、私もそうでしたが、必ずどこかで引っかかってくる問題だと思います。あっさりとした内容しか私には書けませんが、でも、言わんとしていることは、とっても重要なことではないかと思っています。

そこで、しつこいようですが、そのうちの3つ目に書いた内容の補足や続きとして、もう少しだけ書いてみたいと思います。信仰やおかげとかに、あまり関心ない方はスルーしてもらってかまいません。天地の法則として善因善果、悪因悪果というものがあり、簡単に言うと人のために良いことをすると、それが自分に返ってきて、自分にも良いことが起きるようになると言われます。ワールドメイトでは、人は善行を積んだ分だけ、それがその人の徳分となり、その徳分が積み重なってくると、本人の幸せとなってかえってくると聞いています。善行や徳分の意味については機会を改めますが、その逆に悪行を行えば、その分が劫となって、今度は本人に不幸な結果になって出てくることになります。

しかしそこで、疑問に思うことがあります。世の中にはどう見てもかなり悪いことをしているのに、とても成功していて、幸せそうに見える人がいることです。べつに僻みで言ってるのではありませんが、逆にとても親切な良い人で一生懸命人に尽くしているのに、現実はとても不幸な境遇で、物事も上手くいかない人もよく見ます。ですので善因善果、悪因悪果という法則は、とても公平で常識的に思えるので、一応納得はするのですが、実際にはそうなってないことも多いと思ったのです。あるとき友人に聞くと、同じように、俺もそう思うと言われたのを思い出しますが、多くの人は、善因善果、悪因悪果ということを信じつつも、現実はそうなってない事実に矛盾を感じているような気がしました。

しかし、一般的に仏教でもそう説かれているし、易経にも、「積善の家には必ず余慶あり、積不善の家には必ず余殃あり」「陰極まりて陽に転じ、陽極まりて陰に転ず」とあります。また淮南子にも、「陰徳あれば陽報あり」とも書かれているし、やはりそうなのだろうなと思えてきます。

ちなみに淮南子には「人間万事塞翁が馬」の故事もあり、善因善果とは意味は違いますが、昨日書いた話に相通ずるものがあります。脱線しますが、「人間万事塞翁が馬」の故事は、人間にとって何が幸せになり、不幸になるかわからないのだから、それに一喜一憂したりすべきではないことの喩えだそうです。ということは、昨日の話の、初めのケースと3番目のケースに、ぴったりな内容だと思います。

「人間万事塞翁が馬」の故事
昔、中国北方の塞(とりで)近くに住む占いの巧みな老人(塞翁)の馬が、胡の地方に逃げ、人々が気の毒がると、老人は「そのうちに福が来る」と言った。やがて、その馬は胡の駿馬を連れて戻ってきた。人々が祝うと、今度は「これは不幸の元になるだろう」と言った。すると胡の馬に乗った老人の息子は、落馬して足の骨を折ってしまった。人々がそれを見舞うと、老人は「これが幸福の基になるだろう」と言った。一年後、胡軍が攻め込んできて戦争となり若者たちはほとんどが戦死した。しかし足を折った老人の息子は、兵役を免れたため、戦死しなくて済んだ。

話を戻すと、善因善果、悪因悪果について感じた矛盾は、ワールドメイトに入会し、深見東州先生のお話を聞いていく中で、だんだん解決していきました。解決した理由としては、徳分も劫も、今生だけで完結しているのではなく、過去からくるものもあり、来世や、自分の子孫に繰り越されるものもあるという事実でした。簡単に言えば、とても良い事をしている人なのに不幸ばかりが襲う人には、前世からの悪因が多く残っている可能性が考えられるわけです。逆に、前世からの有り余る徳分がある人でしたら、今世において少々間違ったことをしても、それでもかなり成功していくのでしょう。

しかし、悪い事ばかりしている人が、今世のうちに刧を十分に精算できなかった場合は、その分だけ来世は大変になるのだろうと思います。まあ、来世のことなんて心配しても仕方がないよと言う人も多いでしょうが。ただ、いずれにしても現実はそう単純なものではなく複雑なようです。前世からの徳分といっても、ものの施しをして人を救ったような場合は、今世では逆に施される結果になるのか、金銭面において恵まれやすいけども、前世で病人の命を助けたりすると、今世では健康や強靭な肉体に恵まれたり、その出方もいろいろなパターンがあるようで、なおかつそれが絡みあって出てくるので複雑になるようです。

さらに、信仰にもとずき正しく発願する事によって、過去に積んだ刧を、情状酌量の余地ありとして縮小してくださったり、あるいは本来の命運を変えてくださったりもあるとのことです。また、大きな使命を持って生まれる人などは、本来は良い環境に生まれても良いだけの徳分があるのに、わざわざ大変な環境に生まれて苦労する事で、その大きな使命を果たす場合もあるようです。歴史に残るような宗教家などは、多くがそのようです。恵まれすぎた環境で生きている人には、世の中の庶民の苦しみを救うような宗教的な救いや教えは出せないでしょうからね。

それから、生まれた家系の持つ徳や刧の影響も大きく受けるそうです。これは、今まで運が良かった人が、運の悪い家系の人と一緒になったことで、急に運勢が変わってしまうことでも理解できます。そんな例は、身近なところにも、有名人にもたくさんあります。

また、自分では善いことをしているつもりでも、善いことになってない場合も多いようです。逆に悪いことのように思えても、それが善い行いであったりすることもあるようです。善悪の基準は明快にあるのですが、人間が完璧に判断するのは難しく、自分ではわからないものです。他にも、多くのケースや要素があり、それらが複雑に絡んで生きているのが我々人間なわけです。そう考えると、まさに人生とは「人間万事塞翁が馬」なのだと思えてきます。先々の事は、神のみぞ知るわけで、人間の予測通りにはいかないです。悪いことが起きても、それが後々良い結果になるかもしれませんし、良いことばかりだと思っていたら、突然、苦しい状況になるかもしれません。

じゃあ、神様に対する信仰も、人間の努力もたいした意味はないように思うかもしれませんが、もちろんそういう意味ではありません。まず人間の努力がなければ、はなしにもなりません。お願いして努力したからといって思った通りの結果になるとはかぎりませんが、努力をしなければ、なんにも良いことはおきませんし、いよいよ悪い結果ばかりになってしまうでしょう。神様にしても、人間の努力の上にしか、その力を発揮されないのが事実ですから、なにがおきても信仰心が揺るがず、苦しい時も良くなると信じて、良い時でも奢ることなく、前向きに考え、感謝して努力できることが大事だと思います。

善因善果、悪因悪果の法則は、以上のように色々なものが絡むので、人間が正確に自分の実態を知り得るものではないのでしょう。でも神様の世界では、きっちりと数値になっているほど、この法則は厳然としていると、ワールドメイトでは言われています。

 

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そこで、ここから今日の本題になりますが、神様は善因善果、悪因悪果の法則に厳然と基ずき、ときに刧を縮小する措置を取られ、それは神の慈悲なのですが、その神様の慈悲は大愛なのだそうです。人間の持つ愛情と似てるけども、もっと大きな観点からみた愛なので、大愛というのでしょう。大愛であるがゆえに、たとえば本来ならもっと神様のおかげを与えてもいい場面でも、そうすれば私達も嬉しいのですが、あえてそうなさらず、ストップされることが出てくるわけです。なぜか? ご利益ばかりだと、色々な意味で、その人の進歩向上が止まってしまうからだそうです。あるいは止まらないまでも、ベースダウンしてしまうのでしょう。

それは、まちがいないでしょうね。自分にあてはめて考えてみると、ご利益が続けば、過度にご利益に頼りだすのは目に見えています。すると厳しい努力や、つらい挑戦を避けるようになるでしょう。怠ける方に、楽な方にいくことは、経験上からも明白です。だから進歩向上が止まってしまうのでしょう。あるいは大幅に減速するのでしょう。人間は、御魂の向上のために生まれていますから、それではまずいのです。だから、おかげを止められることによって、おかげがなくてもやれるように、人は自力で努力せざるを得なくなるわけです。それによって盤石な実力が身につき、そこに神様が応援すれば、もっと大きな次元で活躍できるように進歩するのでしょう。

さらに、つらい苦労が来たりすることもあります。それは、何度も言うように、神様が早くその人の刧を減らすためにされるわけで、劫が少なくなると、努力した結果が、より確実に現れるようになってきます。また劫を縮小するときに、同じ苦労をするのならば、より御魂の修行が進むようにされるようです。だからこそ、そういうときに、御魂が大きく向上してるのでしょう。それを乗り越えたときには、自分が生まれ変わったように変化しています。考え方や行動が大きく変わり、賢くなり、たくましくなり、パワーアップしていると思います。

さらにまた、神様の功徳や証を、以前よりも身近に感じるようになり、もっと強くおかげが出てくるようになります。そういうサイクルを、何度も何度も繰り返していくうちに、どんどんレベルが上がっていき、不動の信仰心が培われていくのでしょう。あまり無理のしすぎはいけませんが、神様は大愛によって、最終的に良かったといえるようにして下さるそうです。だから自分の尺度で見ると、神の愛を理解できないかもしれませんが、それは大愛によって愛してくださっているからだと信じて、何があっても、たとえ厳しいことが目前におきても、信じていけるのが信仰の妙諦なのですと、ワールドメイトでは言われています。

そうやって、信仰心が本物になっていくと、深見東州先生のように、すぐに神様が動かれ反応して下さるような、神人合一した人へとなっていくのでしょう。

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