前回の内容で、神様が一番嫌いなものがわかったら、では、その逆をやれば、神様は喜んでその人を守護してくださるのではないかと思います。ワールドメイトで深見東州先生は、怠り、狎れ、侮り、油断、傲慢、増長魔の逆は「誠」ですと言われていますが、この誠を貫けば、神様もいつも守護してくださり、功徳を下さるでしょうと言われます。
誠と聞くと、「愛と誠」という古いコミックがありますが、映画やドラマにもなったそうで、昔まとめ読みをしました。「愛と誠」の"愛"も"誠"も、実は物語に出てくる登場人物の名前なのですが、純愛ものとして一世を風靡しただけあって、人としての誠が表現されている部分がそこにあったと思います。

誠というと「誠実」という言葉が浮かびますが、意味は、「言動に嘘偽りがなく、常に良心の命ずるままに行動する様子」「私利私欲を交えず、真心を持って人や物事に対する様」だそうです。「誠」で調べると、「相手のために尽くす気持ちだけであって、不純なものが全く混じってないこと」「事実のまま、嘘ではないこと」という感じです。真心に近いものを感じますが、そういう意味で、あの「愛と誠」のコミックも、そのようなテーマで貫かれていたと思います。

しかし、ワールドメイトで深見東州先生が言われる誠は、もう少し理解が深くなります。真心はとても大事ですが、それだけでは誠を尽くしたことにはならないようです。真心が本当なら、それが口に出て、行いに出てこそ初めて誠になるそうです。だから世界平和を祈る人は多くても、祈るだけではなく、それを実行に移すことをしなければ、誠とは言えないそうです。

また仕事において人並み以上の成功を望むのであれば、人の3倍努力する気持ちで実際にそれを実行し、初めて神様への誠が通り、神様の守護と叡智がいただけるそうです。そして3倍努力したことが、実際は20倍30倍になって返ってくると言われていました。

ここでその誠の実践に関して具体的に言うと、まず「わざわざ」ということが大事だそうです。「わざわざ何かをする」というのは、面倒くさいという気持ちの反対になる行為と言えます。理想としてやったほうが良いことなら、普通は面倒くさいからやめておこうというようなことでも、そこをわざわざするとか。あるいは病気で入院した時に、仲の良い友人が遠方から時間を作ってわざわざ訪ねてきたら、やはり嬉しいものです。わざわざ来なくても良かったのになんて言いながらも、相手の誠意を感じますし、それが意中の彼女だったりすると感激するかもしれません。別に彼女でなくても構いませんが、たとえば身内に不幸があった時なんかでも、思いがけない人から弔電や香典や供花をいただくと、その人の誠意を強く感じるものです。逆にいつもよくしてやってるのに、そんな時に何もしてこないと何だと思われるでしょうね。また結婚式だからと、忙しいのに仕事を休んで来る人もいます。わざわざ仕事を休んでまで来なくていいよと言っても、来てくれた時は本当に嬉しく感じるものです。

ワールドメイトでは神事の時に、その神様由来の神社や神域にまでわざわざ足を運びます。そして何日かいて祈ります。だからこそ神様もワールドメイト会員一人一人の誠を感じ、それならばということで守護され動かれるというのが、なんどやっても事実でした。中にはどうしてそんな遠くの不便なところに行くのかを、あるいは何日かいて祈ることを、よく理解できない人もいるでしょう。そういう人は参加しなくていいと思います。嫌なのに無理に行っても誠にならないでしょうから。病気のお見舞いに来てもらっても、行きたくなかったけど無理矢理連れてこられたと分かれば、見舞われる側も嫌な気持ちになるだけです。それは誠とは言えないでしょう。喜んで行動したものでないと、人間にも神様にも誠が通じることはないと思います。ワールドメイトで深見先生が言われるとおり、心と言葉と行いが一致しないものは誠にならないのでしょう。言うのは簡単ですが、これがなかなかできないことでもあります。

愛と誠コミック

また「愛と誠」のコミックの話になりますが、あれで私がすごいと思ったのは、もちろんフィクションですが、主人公の誠が札付きの不良高校に転校して行った時に、誠の更生を願う愛まで、後を追って転校したことでしょうか。さらにその愛のためなら死ねると宣言する学歴優秀な男子も、転校してしまった場面でした。実際にはありえない、わざわざそこまでするのかという内容ではありますが、人間の誠を描いた部分だったのではないかと密かに思っています。長くなるので詳しいストーリーは割愛いたします。

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