ここ数年のワールドメイトの深見東州先生の活動は、社会のさまざまなところで見られるようになりました。新聞でも、深見先生に関する記事を見る日が増えています。それも、深見先生の素晴らしさをかなり適切に書いてあるものが多いようです。ワールドメイト会員の私は、喜ばしいことだと思って見ています。そして、私もその深見先生の活動を、できるだけ紹介してきました。ワールドメイトの活動はもちろんですが、ワールドメイト以外での活動が、特に最近増えています、というか目立ってきています。それらもできるかぎり自分で参加できるものには参加して、それを、こちらで書ける範囲で書いてきました。

しかし、ふと思うと、なんで深見先生がこのような活動をされているのか。また、なんであそこまで多面的な活動か可能なのか。その大本については、じっくり書いてこなかったなと思います。書けなかったと言った方が正解かもしれません。もう少し、そのあたりのことも、これからは並行して書いてみようと思います。
しかしこれが大変難しいのです。理屈や理論を超えたものがあり、それは、本当にそれを会得した人にしか、書けないことの方が多いからです。たとえば、私は深見先生のコンサートに行って、歌に感動したとか素晴らしかったこととかを、自分なりの表現で書くことはできますが、それを、その道の専門家のようには批評できません。それは私が、自分でそこまで上手に歌を歌えないからです。もちろん、たとえ上手に歌えなくても、いい歌をたくさん聞いて耳が肥えていて、知識も豊富にあれば、かなり適切な表現でもって、その素晴らしさを書けるようになるかと思います。それは現在修行中なので、まだまだ随分先のことになるでしょうけど、そうなりたいと思っています。

しかし、仮にそういうふうな専門的な知識と批判力が身に備わったとしても、それでも、人にどうやれば深見先生のように上手に歌えるのかを教えることは不可能です。それができるのは、深見先生ご自身か、または、同じくらいのレベルの人でないと難しいでしょう。要するに、何が言いたいのかというと、なんで深見先生があのような万能の天才と言われるような活動ができるのかを、文章でいろいろ理屈をこねて書くことはできますが、自分自身でそれができてないのですから、仏作って魂入れずというようなもので、あまり説得力がないなぁと思えるのです。だから、あまり書く気がしなかったのでした。

それでも、あえてその自分ではできてないことを、偉そうに書こうとしているのは、深見先生の活動が、いよいよ凄まじいレベルになりつつあり、それをそのまま書くだけでは片手落ちだと思ったからです。そろそろもっと本質に迫るべく、少しは書けるようにならないと、書いてる方も何を書きたいのかよくわからなくなってきたのです。なので、初めに言い訳のようになってしまいましたが、その辺りの事情をくみとっていただき、分かりづらい点、抽象的な点などは、深見先生の著作を見ていただくとして、私は、私の体験したレベルのなかで、それらを書いていくつもりです。

深見東州先生が様々なことをできるわけ

前置きが長くなりましたが、深見先生があれだけ色々なことをできるのは、一言で言えば、神人合一されてるからだと思います。たとえば、芸術活動だけでも、クラシックからジャズからなんでも歌われます。それもすべて一流歌手のレベルであるのは聞けばわかります。

また、書は、やはり何種類もの筆跡で書くことができる、まるで空海のような書です。昨年は大英博物館から、書のデモンストレーションを依頼されています。絵画は、これも見たらわかりますが、とても普通の人ではかけないような見事な絵画作品です。ある人はセザンヌは超えていると評しました。絵画の専門家には、巨匠の絵画であると評する人がいます。私も専門家ではないですが、大いに同感です。ゴッホとか、マチスとか、そんなレベルで評される作品だと思います。

また、能、京劇、バントマイマー、でもあり、とくに能は堂々とした風格と品格があると、能楽師からも評されています。ギャグ連発のバントマイムも、時代が昔なら、キートンなどの喜劇役者と肩を並べただろうと評するマスコミもいました。そして短編作家としても、いくつか作品があります。それを原作に、自らの劇団を率いて、監督から演出、音楽まで手掛けてシェークスピア劇団の再来と言われる楽しい大衆演劇を、定期的に開催されています。

ファッションショーを自らデザインした作品で行ったこともあり、作品が、有名なデザイン協会の賞を取っています。華道、茶道、陶芸、指揮、バレエもいくつかの実績を残してあります。

さらに、経営者として、いくつもの自分の会社を成功させ、中小企業のコンサルとしても、たくさんの実績を残してあります。シンポジウム、グローバルサミットなどでは、世界のオピニオンリーダーを多数招聘し、その運営からモデレーターまで、すべてを切り盛りし、政治・外交・経済の論評も行い、いずれも専門家並みの知識と、それ以上の的確な判断を有してあります。

また、人類愛にもとずく、世界的な福祉活動、人権問題への取り組みも、民間の日本人としては、驚くほど積極的に取り組まれ、その実績も、海外の人々から大きく評価されています。スボーツ活動の支援も、その一つですが、とくにゴルフにおいては、世界の主要ツアー関係者、選手との信頼関係が厚く、日本でも、今年は男子ツアーを主催され、グローバル化に向けた画期的なトーナメントを企画し実行されました。

さらに、カンボジア首相顧問をはじめ、世界中の国の様々な分野で、多くの公的役職が多数あり、賞や名誉ある地位も授かっています。名誉職ではない、厳しい論文審査を通過した一流大学の博士号も現在2つ取得されています。

極めて簡単に書いてますが、それでもキリがないのでこれくらいにしますが、こういうことを一人の人間がすること自体、考えられないことだと思います。最近、新聞報道されてるような活動は、エンターテインメント的なものが多いですが、その陰では、その何倍もの多くの公益活動、慈善活動、文化活動を同時並行で進めていかれています。

神人合一のことを学ぶ意義

ということで、ワールドメイト会員は、深見先生が神人合一されているから、あれだけのことが同時にできると理解しています。その目的には、日本を中心とした世界平和の実現があるわけですが。

で、どうやったら深見先生のように、神人合一して万能の人になれるのか?それを最短で学べるのも、ワールドメイトの大きな特徴ですが、しかし、どんなに頑張っても、深見先生のようにすぐになることはできません。あれぐらい、努力すればできると思う人がいるとしたら、それはちょっと世間知らずとしか言いようがないでしょう。残念ながらそこまでは無理だとしても、悲観する必要はまったくありません。今すぐになれなくてもいいのです。なぜなら、人は生まれ変わりするものなので、今世に培ったものは、なんらかの形で来世にも継承していけるからです。あせらずに、何回生まれ変わろうとかまうものかと思えば、やがては、深見先生のように神人合一できる時がくるかと思います。

とは言いましても、今世において、つまり今の人生において、少しでも素晴らしくなりたいと思うのは当然のことでしょう。もちろん、それは可能です。その人の持つ条件レベルに応じた一番最高の人生を送ることは、十分できるはずです。だから、神人合一というものを学ぶことは、とても意義あることなのだと思います。
ただし、それがなかなか難しい。人によってはとても難しいと思うでしょうし、でも、そうでもないという人もいます。なかには、はじめてこのような内容を聞いたことを、かけがいのない喜びとして、ワールドメイトとの出会いを、一生の宝物だという人はけっこういます。もっと早くから出会いたかったという人も多いですね。まあ、私もその一人なのですが。

ちなみにワールドメイトの場合、昔言われていたのが、松竹梅という段階のことです。松レベルの人は、とにかくひたすら運がよくなりたい、今の苦しみからなんとか救われたいと、救いを待つという意味で松レベルといえます。そして次は、いろいろと学びたい、真実なものを学び、研鑽したいと思う竹レベルの人です。神人合一の道を学びたい人も、この竹レベルであり、竹のようにすくすく伸びるという意味があります。梅レベルは、自分のこともですが、とにかく世のため人のため、神様のために生きたい、神様のために何かをすることが喜びだという人です。神界の花と言われる梅にちなんで、梅レベルといいます。

ただし、実際には、これらの複合のような人が多いようです。つまり、現実面でなにかの苦しみから救われたい部分も持っていて、でも、神人合一の道も学んで会得したいと研鑽もし、さらに、神様のため世のためになにか役に立ちたいという高貴な志も持っているというパターンです。そもそも神様の役に立ちたいと言っても、それには、ある程度のレベルで神人合一してないと難しいでしょうから、実際には梅の志を持って、竹のように研鑽し、たまに松にもなるという人が多くなるでしょう。

それから、救済だけを望む松だけでもいいし、勉強だけしたいという竹だけでもいいと、ワールドメイトには、寛容に受け入れてくれる環境があるのも、様々なニーズがあるこの時代に合ったものだと言えます。

生活の中にすべてがあった

ではいよいよ、その神人合一について、深見先生はどのようにいわれているかというと、その基礎は、すべて生活の中にあるとのことです。言うまでもありませんが、深山幽谷にお籠りして寒修行や荒業するようなことではありません(笑い)。ヨガのような瞑想もしません。ワールドメイトには、もともとそういうものがありませんが、それらの行為をすると、まったく違う目的になってしまうでしょう。

では、生活の中にすべてがあるとは、どういうことなのでしょう。深見先生の師にあたる植松愛子先生は、「日常生活の中で、あなたのお家、あなたのお部屋、机の中を整理整頓しなさい。それがすべての修行なのですよ」と言われています。難しい言葉は一切ありませんし、また、毎日のありふれた日常の中にすべてがあると言われると、ものすごく意表を突かれた気がしました。最高に高尚なものとは、とても難解なもののような気がしますし、手の届かないような世界にある気がしますが、実は、もっとも身近な平凡なところに真実があったのです。

生活

禅宗の道元禅師は、「遍界(三千世界)いまだこれを隠さず」と言ったそうですが、真理とか真髄とかを、天はいまだかつて隠したことがない」と表現したそうです。あたり前のことの中に素晴らしい真理があることを道元さんは悟ったということです。そうなると、悟った後ではすべてを見る目が変わってくるそうです。

禅では「柳は緑、花は紅」と、言いますが、それも普通に聞くと当たり前じゃないかといいたくなります。中には、いや、花には黄色も白もあるぞなんていう人もいるかもしれませんが、そんな問題ではないようです。これも、柳は緑のままで森羅万象を語っており、花は紅のままで、森羅万象のすべてを語っているとのことで、そこに真髄を見ている境地を言ったものだそうです。他にも、「眉毛眼上にあり」とも言ったそうですが、これらは、虚心坦懐に、素直に物事を見る中に、奥底を悟るということを言ってるそうです。ということで、素直というのが、とても大事になってきます。ただ素直と言っても、なんでもハイハイ言うのが素直ではないようです。ここから生活の中での修行になっていきます。

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