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ワールドメイトとシアヌーク病院


シアヌーク病院ができるまでのカンボジアの歴史

ワールドメイトのカンボジアにおける医療福祉活動は、バッタンバンでのワールドメイト救急病院への支援に、今後、軸足をシフトしていくということです。シアヌーク病院への支援もある程度続けていくとのことです(これを書いている2015年5月現在の情報)。

そのシアヌーク病院は、ワールドメイト会員にとって、福祉活動のシンボル的な存在でもあったように思います。これからは運営のすべてをホープ・ワールドワイドが担うわけですが、この先もずっと、カンボジアのために貢献し続けて頂きたいですね。多くのワールドメイト会員も、それを願っているように思います。
これからワールドメイトは、圧倒的に救済が必要な地域に重心を移し、より一層貢献をしなくてはいけないのだろうと思いました。それがバッタンバンのワールドメイト救急病院なのでしょう。

これまでシアヌーク病院を支援してきたワールドメイトの足跡は変わりませんが、ひとつの区切りでもあるので、ここでシアヌーク病院のこれまでのあゆみをまとめてみようと思います。
まずカンボジアに、シアヌーク病院がなぜ必要だったのでしょうか。それには、カンボジアの歴史を振り返ってみる必要があります。

話は古くなりますが、カンボジアの最盛期といえば、今から約1200年前に始まったクメール王朝時代です。なかでもアンコールワットを建築したスーリヤヴァルマン2世(1113-1150年頃)、アンコールトムを造営したジャヤーヴァルマン7世(1181-1219年頃)の二人の王が有名です。ジャヤーヴァルマン7世の時代に王国の版図も最大になります。そして、その死後から、だんだん衰退へと向かいます。その後は今のタイにあたるアユタヤ王朝など、隣国の干渉や侵略を受けながら、1431年にクメール王朝は滅びます。以後もタイやベトナムの干渉や支配を受け、完全に弱体化したカンボジアは、1887年にはフランス領インドシナに編入されます。

しかし、1941年、ワールドメイトが建設した無料病院の名づけ親となったノロドム・シアヌーク氏が王位に就くと、独立運動を大いに展開し、1953年11月に、とうとう完全な独立を果たします。その後は王位を父に譲り、自らは選挙で首相となり、シアヌーク政権は1970年まで続きます。

1965年、アメリカは北ベトナム空爆に踏み切ります。そしてカンボジアは、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線の補給基地など黙認していたため、アメリカとの関係が悪化します。そのためベトナム戦争の影響を受けますが、爆撃や内戦は激化してなかったので、まだ、食料も豊富でした。

しかし1970年、親米であるロン・ノルのクーデターで、クメール共和国が樹立されると、北ベトナムのホーチミンを粉砕するため、ロン・ノルはカンボジア内の、南ベトナム解放民族戦線を支援するベトナム人を虐殺し、さらに米軍に自国を侵攻させ、全土を空爆させます。

一方、一旦北京に亡命したシアヌークは、反ロン・ノル政権で結集し、以前は弾圧をしていた共産主義のクメール・ルージュと共に帰国します。クメール・ルージュはシアヌークを擁立してロン・ノルに激しく抵抗しますが、米軍もロン・ノル支援で内戦に参戦します。このアメリカの介入で、ベトナム戦争からインドシナ戦争へと拡大するなか、空爆によって、数十万人の農民が犠牲となり、国内に200万人もの難民が発生します。また、食料のインフラが根こそぎ破壊され、以後深刻な食糧難が、とくに農村で発生していきます。これらのことが、クメールルージュ(カンボジア共産党•ポルポト派)の伸長へつながっていくことになります。

1973年、アメリカがベトナムから完全撤退したことで、ロン・ノルは後ろ盾を失い、1975年4月には国外へ亡命します。そして、南ベトナムのサイゴンも陥落し、ベトナム戦争も終結しました。クメール・ルージュはプノンペンを陥落させ、1976年、カンボジアは民主カンプチア(民主カンボジア)となります。

長くなるので簡単に書いてますが、クメール王朝の滅亡以降、中世カンボジアの暗黒の歴史は近代までかなり長く続きました。そして、ようやく第二次世界大戦後、シアヌーク王の活躍で独立を果たし、一時政権を奪われたロン・ノルも打倒しますが、その1970年から始まったカンボジアの内戦により、国内は滅茶苦茶になってしまいました。しかし、カンボジアの凄惨な悲劇の歴史は、まだ、これから始まります。

 

20年を超える内戦を乗り越えて

ワールドメイト救急病院があるカンボジアのバッタンバン州は、かつてクメール・ルージュが、1971年初頭にベトナム軍に駆逐されると、その後拠点とした地域です。そしてここは、クメールルージュが埋めた地雷による死傷者が、もっとも多いところだそうです。ワールドメイト救急病院があるおかげで、バッタンバン地方で負傷した人や病人が救われることに、とても大きな意義を感じています。

さて、クメール・ルージュによるジェノサイドにも触れなければいけないのですが、正直言って書くのもためらうほどの、まさに地獄絵図です。戦争が殺戮であるとはわかっていても、狂気としか言いようのない現実が、ほんの40年前に行われていたのです。いまでも、それと変わらないような無差別テロも虐殺も存在しますが、これほど短期間のうちに一民族に対し、おびただしい殺戮が行われたことに、いいようのない悲しみを感じます。

ワールドメイトでは、そのときの犠牲者の遺族に対し、義援金を渡すセレモニーを行いました。またそのことは改めて書くつもりですが、今回は内戦のおおまかな経緯を書いて、その原因となる政治的背景にはふれません。複雑な情勢は、いろいろなところで分析されてますので、そちらを読んでください。救済や復興のことに重点を置いて書くつもりです。一人のワールドメイト会員の気持ちとしては、今、自分にできることは何かを考え、そのできることに参加させていただいていることに感謝するのみです。

1975年、クメール・ルージュがブノンペンに入ると、民衆は、これで内戦も終わったと思ったでしょう。当時のプノンペンは、農村から食料を求めて流れ込んだ人々で、人口が膨れ上がっていました。ところがクメール・ルージュは、いろいろな口実ですべての民衆を農村に追いやるのでした。病人も幼い子供も容赦なく追い出され、途方もない距離を歩くなかで多くの人が倒れていきます。そして、知識を持った人々を騙して連れ出すと、片っぱしから虐殺し始めたのでした。これはクメールルージュの、極端で原始的と言われる共産主義政策からきたものです。つまり、階級、身分、財産など、資本主義に繋がる要素を皆無にするため、教育もせず、貨幣も廃止し、農村での農業だけに従事させたのです。その農業も技術的なものを排し、非科学的なため、効率はよくありません。さらに、反乱の可能性があるとして、知識階級だけでなく、親ベトナム派や、クメールルージュであってもそれを疑われた者は、容赦なく殺害されたのです。そして餓死・病死する人も多く、これらの死者を合わせると、140万とも170万とも言われています。

そのときシアヌークは、クメール・ルージュの非人道的な行いを知って、1976年に政権から離れようとしますが、国民の人気が高いシアヌークをつなぎ止めようと、幽閉されてしまいます。
その惨劇は、1979年、クメール・ルージュとの関係が悪化したベトナムによるカンボジアへの攻撃と、事実上のベトナムによるカンボジア支配によって終焉していきます。この年、カンプチア人民共和国が成立します。

しかし共産主義ソビエトの支援を受けるベトナムと、カンボジアの関係は修復し難いものになっていて、クメール・ルージュの蛮行からは開放されたものの、ベトナムに支配されるのも耐え難いものでした。国際社会もソビエトや東欧諸国は別として、新政権をベトナムの傀儡として受け入れませんでした。そのため新政権と、中国の支援を受ける反ベトナムのポルポト、シアヌーク、ソンサン派らとの間に内戦が続いていきます。

1986年、ベトナムの新たな新政権が、ソビエトのペレストロイカなどの情勢を鑑み、それまでの頑な社会主義体制から、経済開放と国際協調へとシフトし始めます。それにともない、カンボジアからの撤収もすすみ、1989年9月には完全撤退を果たします。そこからさらに紆余曲折はありますが、国際平和会議の調停と、対立する当事者同士での和平に向けての話し合いがすすみ、ポルポト派をのぞいた総選挙を経て、1993年9月、立憲君主制のカンボジア王国が誕生し、ついに内戦が終結しました。
また1998年には、潜伏するポルポトも死亡し、クメール・ルージュの支配地域も消滅します。

ざっくりとカンボジアの歴史を振り返ってみましたが、内戦が終結したのは、まだほんの22年前というのが信じられない気持ちです。するとワールドメイトの深見先生が無料病院を作ると決意されたのは、内戦が終結し、ようやく国家再興にむけて新たに動き始めた頃だったのでしょう。カンボジアの復興と軌を一にするかのようにあゆんできたのが、シアヌーク病院だったのです。

シアヌーク病院ホームページ

シアヌーク病院の石碑

シアヌーク病院の石碑には、こう刻まれています。「深見東州氏とワールドメイトの構想と寛大なる支援によって建設されたシアヌーク病院は、貧しい患者に医療を提供するために、1996年12月に開院した」

 

シアヌーク病院の建設はじまる

ワールドメイトの深見東州先生は、ワールドメイトができるずっと前から神仏のために、そして国のために生きてこられていました。神仏のためにというのは、神さまの心を汲んで実行されていることと、ワールドメイト会員は理解しています。国のためにというのは、当初は日本文化を海外に紹介し理解を広めるなどして、日本の国に貢献されていたと思います。現在はあらゆる方面で、もっとスケールが大きな貢献をされています。

それからもうひとつ、人類のために生きるというテーマを、1991年ごろから模索され始めます。しかし人類のためにといっても、まずどこかにしぼらなくては無理でしょう。それをカンボジアに絞っていかれます。それは、ある知人の方から、カンボジアのことを詳しく聞かれていたからだそうです。

カンボジアの悲惨な状況を知られた深見先生は、そんなに貧しいところなら、なんとしてもカンボジアに病院を作りたいと、その知人に言われたそうです。すると、作るのなら24時間の救急病院が良いと、アドバイスされます。そして実際に何度か現地に見に行かれ、それがおよそ20年前のことです。

1994年頃のカンボジアは、20年以上続いた内戦からようやく終わりを告げたところで、クメール・ルージュによる大量殺戮と破壊によって、すっかり国は荒廃しきっていました。必要な人材もほとんどいません。そんなところに24時間体制で、しかも無料で診療できる大規模な病院を作ろうというのですから、そんな病院があれば、どれほど多くの人の命が助かるのかはわかりますが、誰がやるにしても決して容易なことではありません。

しかし深見先生は決断され、すぐに行動を開始されます。ジャパン・リリーフ・フォー・カンボジアの代表である知人が、現地の建設会社、業者、政府と交渉し、深見先生と協力してプロジェクトは進んでいきました。カンボジア政府は、無料で土地を提供してくれました。そして設計は、丹下健三氏が無償で請け負い、必要な資金はワールドメイトの寄付によって賄われました。

しかし、もっとも大きな困難は、現地で医療チームをつくることが、ほとんど不可能だったことでしょう。カンボジアでは、知識階級の人々は徹底的に虐待され、多くの人々が殺されました。医者はほとんどいません。当時、人口3万人に対し医者1人ということでしたから、1994年のカンボジア人口約1000万とすれば、全土で300人程度だったと推測されます。しかも、高度な治療ともなれば、外国人の医療スタッフがいなければ難しいのです。その状況で24時間体制の、カンボジアの中でもっとも大規模な病院になるのですから、3交代で少なくとも200人くらいのスタッフが必要であり、なかでも重要なボジションには、訓練された優秀な外国人スタッフが欠かせなかったそうです。さらにその運営を一時的ではなく、永続的に続けていかなければならないわけですから、どれだけ困難な問題なのかがわかります。しかし、そんな困難な問題に深見先生はじめ、関係者が苦慮している時に、決定的な出会いがあるのです。

完成したシアヌーク病院

完成したシアヌーク病院

宗派を超えてワールドメイトとホーブが協力

ワールドメイトは天啓宗教と言われています。深見東州先生はもともと世のため人のためと思って生きてこられた方ですが、人類のために生きるというテーマを天啓で受け取ると、その実行としてカンボジアの救済に向かわれました。本当はカンボジアにおいても、カンボジアを救って欲しいという天啓を受け取られたそうです。それは王宮のなかにある、古よりカンボジアを守る聖なる場所として崇敬されているところでのことです。そこは、僧侶を迫害し寺院を破壊したクメール・ルージュでさえ、何も手出しをしなかったという聖域だったのです。

そのように、何事も我力によって進めて行かず、神仏の御心を第一としてすすめていくのは、ワールドメイトで深見先生がいつも言われてることでもあります。口で言うのは簡単ですが、それを本当に実行しているからこそ、どんな困難な状況に追い込まれているように思えても、あるいは不可能にみえるようなときでも、最後は大成功になるのかもしれません。

このカンボジアでの24時間無料病院の運営体制も、あらゆる困難なことが多すぎてどうしたらよいかというときに、タイミングよく素晴らしい出会いがあるのです。それはホープ・ワールドワイドという、アメリカに本部を置くプロテスタント系の慈善事業団体でした。1991年に設立され、5年間で急成長し、その当時7万人のボランティアと500人を超える医師団を持ち、アメリカ国内もですが、主にインドやタイやアフリカなどの発展途上国を中心に活動し、世界34カ国で75のプロジェクトを営むという大規模な組織でした。

その存在を知った深見先生が、創立者のゲンペル夫妻とはじめて会談するのが1996年の7月ごろだったそうです。宗教的な情熱を持つ人で、キリスト教と神道という宗教の壁を越えて、すぐに深見先生と意気投合されます。さらにこの年の11月、ニューヨークのカーネギーホールでのチャリティーコンサート「All the World’s Stage(世界を華麗な舞台に)」を観られ、深見先生がカーネギーホール・オーケストラを指揮し、歌い、大成功をおさめる姿に驚き、感激のあまり自宅に招かれます。そしてホープのメンバーと共に爆笑に次ぐ爆笑の宴で大いに盛り上がり、両者の間に一層の揺るぎない信頼関係が築かれます。教会の牧師さんも深見先生のファンになられたとか。

ゲンペルご夫妻は、「私たちの人生で出会った人たちの中で、最も明るく、楽しく、素晴らしく、信じられないような偉大な人が深見東州さんです」と言われたそうです。深見先生は、このホープ・ワールドワイドとの協力について、「いままで宗教協力や宗際化運動は確かにありました。私も多くの世界宗教者会議などに出席しましたが、結局は話し合いと理解だけで終わってしまいます。今回のホープ・ワールドワイドとワールドメイトの画期的な提携は、実際に手を取り合い、人々の救済のために具体的な活動を実践するという真の宗教協力の雛形になると信じています」と語られたそうです。

こうやって医療チームを編成し運営していくノウハウを持つホープ・ワールドワイドと、ワールドメイトの協力体制が成立し、ついにその年の12月、シアヌーク病院は診療を開始いたします。

シアヌーク病院100万人治療記念式典

 

シアヌーク病院100万人治療記念式典 記念写真: 左から、ロバート・ゲンペル(病院理事)、パトリッシア・ゲンペル(ホープ・ワールドワイド)、ケビン・オブライエン(病院院長)、キャロル・ロッドレイ(駐カンボジア米国大使)、イム・チャイリー副首相、深見東州、デボラ・クリッシャー(ジャパン・リリーフ・フォー・カンボジア)、マン・ブンヘン保健大臣。(肩書きは、撮影当時)

ワールドメイトとシアヌーク病院の果たした役割

1996年12月10日、ワールドメイトの全面的な資金援助により、シアヌーク病院がプノンペンに完成しました。シアヌーク王の妃、モニニス王妃を迎えての開院の記念式典が盛大に開催されたそうです。モニニス王妃は、写真でしか拝見したことはありませんが、とても気品に満ちた美しさを持つ方です。そしてシアヌーク王とともに、カンボジア国民からとても慕われている方であるそうです。

さて、このとき深見先生はワールドメイトを代表して挨拶をされたそうですが、戦国武将の毛利元就の3本の矢の話を引き合いに出され、このシアヌーク病院は、ホープ・ワールドワイドとジャパン・リリーフ・フォー・カンボジアとワールドメイト、そしてカンボジア政府という4本の矢の強い結束によってできたと、ひとつでは不可能なことでも4つが結束すれば、偉大な試みが可能になったと話されたようです。本当にそう感じます。

そして、長く激しいカンボジアの内戦が終わったあとの、本当に混乱し、荒廃して危険もまだまだ多かったであろう時期に、よく教祖自ら飛び込んでいかれて、これだけのことを成し遂げられたなあと、つくづく感じた次第です。日本に病院を作るのとは困難さの次元が違ったでしょうから。

たしかにカンボジアに大きくて近代的な病院さえあれば、多くの人が助かるとわかってはいても、それでもできるものではないと思います。カンボジアの人々が残酷な歴史を体験し、アジアでもっとも貧困に苦しんでいたからこそ、だから深見先生も絶対に作らなければいけないと思われたのでしょうけど、大いなる愛とその実践を、教祖自らワールドメイト会員に示して頂いたと感じています。宗教団体が弱者を救うというのは、当たり前のようでいても、実際にそれを実行できる機会は日本では少ないです。かといって、海外の貧困に苦しむ地域に行ってまでやるとなると、それも簡単にできることではないです。このような形で救済に貢献させていただけることを、本当に感謝しなくてはいけないと思います。

カンボジアでは、それまで全土に800ほどあった病院が、ことごとく内戦で破壊されたと聞きました。医師も、プノンペンにいた500人のうち、最後まで生きていたのは、数人だったそうです。開業当時で医師の数が人口3万人に1人だったとすれば、日本が500人に1人ですから、その少なさがわかります。

シアヌーク病院の開業後は、朝5時から百数十人もの人々が並んでいたそうですが、その後もその存在が知られるにつれ、どんどん患者が増えていったようです。医者が絶対的にいなかったことがわかります。そして今日(2015年初頭)までに、約130万人近くの人々が治療を受け、なかでも、年間数千人の命が救われているそうです。

この病院の特徴は、貧しくて他の病院で診療拒否された人を全面的に受け入れ、さらに他の施設で受けられないような適切で必要な処置を受けることができることです。その高度な治療によって、命を救われる人が、後を絶たなかったのです。

最近はその状況も変わり、プノンペンの多くの病院が、一定以上の患者を無料で治療をするようになったそうです。それは、シアヌーク病院の成功モデルに習った結果だそうです。それから、現地の、多くの看護師、優秀な医師を育てては、そのスタッフたちがカンボジア全土で活躍しているおかげで、医療レベルのアップにもつながっています。その後2003年には、管理、実験、育成などの目的で第2病棟が、2004年には、医学研究、感染病との戦いに必要な治療やトレーニングのために第3病棟が、ワールドメイトの寄付により完成します。

最後に私が感動したのは、深見先生から聞いた話ですが、海外から来て頑張っている医師たちのことです。その人たちも生活があるので給料は出ますが、日本人から見ると少ない額で献身的に活動しているそうです。もしアメリカで医師をやれば、本来なら数千万の年収は下らない人たちです。カンボジアは物価が安いのでお金がかからないにしても、あふれるようなボランティア精神と博愛の精神がなければ、快適な暮らしを選択する自由もあったのにそれを捨て、生活も不便で暑いカンボジアに行ってまでできないことだと思いました。ワールドメイト会員も尊いけど、これは真似ができないことだと思います。