ワールドメイトに入会していろいろなことが変わりましたが、そのひとつに、世の中で起きてる問題や出来ごとに対し、偏りや思い込みが少なくなったということがあります。それまでの私は、だれかの説を聞いて感心すると、その視点からしか見れなくなっていました。つまり、完全にフィルターができてしまい、それ以外の考え方を受け入れることができなかったようです。そのことに気がつかせてくれたワールドメイト、深見東州先生には、どれほど感謝してよいやらわかりません。ワールドメイトに出会っていなければ、おそらく偏見と思い込みの強い頑固者として一生を送るところでした。

人は、知らずしらずのうちに観念というものができあがり、そこから自分ではなかなか抜け出せないので、考え方が次第にゆがんでくると思います。こっぴどく他人から正されるか、あるいは恥をかくか失敗して、それに懲りて素直に反省すると矯正されていくかと思います。ワールドメイトでは、そんな手荒なことはされませんが、深見先生のお話の中で、あるいは神事に参加して、自然と観念が外れることが多々ありました。それは誰にでもできることではなく、限られた人にしかできない技かもしれません。その観念外しの達人が、深見東州先生だといえます。

 

驚き

観念の内容にもよりますが、観念がなくなると、とたんに気持ちが楽になる場合があります。また、その人の持つ可能性がぐんと広がると思います。たとえば、真面目に宗教をやってきた人に多いのですが、「人を恨んだりしてはいけない」という教えを守らなければという強迫観念に縛られてしまい、ちょっとでもそういう気持ちになると自分を責めて、自虐的になる人がいるのです。聖人君子ではあるまいし、人を恨んだり妬んだりすることが絶対無い人なんて、深見東州先生ならともかく、普通はいないと思います。それどころかそんな感情が湧いても、ほとんど気にも止めない人の方が圧倒的に多いでしょう。そんな感情がよいとは思いませんが、あまりに気にしすぎて自分を責め過ぎると、自分を不幸にしてしまいかねません。ですから、そういう人に対して深見東州先生は、「恨んでもいいですよ、ただ、ずっと恨まなければいいんですよ」と言われていました。

実際はもっと長いお話ですが、私もそれを聞いて、そうか、と観念が外れました。神仏を信仰すると、どうしても人への愛が大事だとか、人を恨むことはいけないとか、それを守らないと地獄に行くんじゃないかとか、心配のあまりかえって心が乱れてしまい、本人の心の中が地獄になってる人もいるようです。それではなんのための教えかわかりません。かえって信じたために不幸になってしまいます。そうならないように、その状態を見抜いて、タイミングよく相手の縛られた観念をポンと外すことができるのが、深見東州先生の凄いところでしょう。

しかも同じようなことで行き詰まった別の相手に対しては、千差万別に微妙に違う答えを言われます。同じように見えても、相手が違うわけですから、けっして同じ答えになるとは限りません。次々といろいろな例えが出てきて、その相手にとってベストなお話をされるのを見れば、もはや神技としか思えません。それを対機説法というそうです。たとえば孔子は、ある人には親孝行をしなさいと言いますが、親孝行に縛られ自分の才能まで殺している人には、親孝行よりも自分の考えを大事にするように言われるなど、対機説法で弟子たちに応対していたようです。

対機説法は、その瞬間の相手の状態に対するベストな答えなので、それだけ聞くと内容が相手によって違うため矛盾した教えだと思われそうです。本当は矛盾ではなく、相手を幸せにする方法がそれぞれ違うだけなのですが、活字にすると背景までわからないので誤解が生じるようです。教えが大事なのではなく、相手の幸せを大事にするので、相手の状態、環境、性格、レベルから一瞬で最適な答えが出てくるのでしょう。それを活字にしてしまったものは、教えとして参考にするのはいいですが、生きた教えにはなりにくいでしょう。

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