ワールドメイトに禅宗の話が出てくる理由は

前回は、深見東州先生から聞いた禅宗と茶道の話を通して、禅宗やワールドメイトの本質に迫ることができればと思って紹介しました。前回はそこまで書ききれませんでしたが、ワールドメイトでは、禅宗をかなり重視しているところがあります。それは、ワールドメイトの本質をなす神道と、禅宗というものが、趣を一つにする部分があるからといえます。

今回は、前回書ききれなかった、禅宗がワールドメイトにとって、どのように生かされているのかについて書きたいと思います。

まず、ワールドメイトのベースになる神道について知っておかなくてはなりませんが、神道は、一般的に世界宗教のように教義を説く経典というものがありません。古事記、日本書紀という神話物語があるだけです。江戸時代には、国学者によって復古神道が唱えられて、その時にある程度体系化したものや、その後も、本田親徳のような神道霊学なども出てきました。また、大本の出口王仁三郎は古神道を実践し、独自の教義を確立させていますが、一般的に、キリスト教のような戒律や教義を説いた経典などは、神道にはないとされています。

経典がないためか、海外の人々からは、原始的な宗教のように思われたりもしますね。神道は、神道と呼ばれる宗教が昔から存在していたわけではなく、古来から日本人の中に受け継がれてきた文化や慣習の中にある漠然とした感覚や感性のようなものなので、日本人でさえ神道についてはうまく説明できる人は少ないかもしれませんね。仏教の伝来以降、区別するために、そのような呼び名になってきたようですが、当然のことながら、終戦の時にGHQによって国家神道と呼ばれた体制とも違うといえます。

ちなみにワールドメイトでも、教義・経典という呼び名のものは存在しませんが、深見東州先生を通じて、これまでに膨大な教えが残されています。それらを丹念に勉強しようとすると、一生かけても追いつかないほど濃い内容が盛りだくさん存在します。それらをある程度学んでいるワールドメイト会員でしたら、神道や宗教について、それなりには語れると思います。

そして、その教えの真髄になると、やはり目に見えない世界であり、神様に対する感覚や感性の世界という次元になるかと思います。そのような目に見えない真髄を伝えるのに、禅宗や老荘思想の教えが、かなり役に立つわけですね。

特に禅宗は、ある程度体系づけられていて、無形の世界を伝えるのに一番適していると言われていました。そこで禅の中身を通して、文字や言葉で表現できない妙なる世界を咀嚼したり、実践したりして、無形の世界の真の体得に肉薄できるようになるとのことです。

もちろん、禅宗とワールドメイトでは、宗教の教えとしては、内容にはかなりの違いがあります。あくまで無形の世界に入るための、体得するための導入部分において,勧められているのだと思います。

ところで前回は、現代の茶道の開祖とも言われる村田珠光が、一休禅師のもとで見性した時に言った、「柳は緑、花は紅」という言葉を紹介しました。

柳の葉の色は緑色です。花にはいろんな色がありますが、紅い花もその一つでしょうね。何やら意味深な言葉ですが、特別なことを言っているわけではなく、当たり前のことを言っていますね。

道元禅師の『永平広録』の中には「只だ是れ等閑に天童先師に見えて、当下に眼横鼻直なることを認得して、人に瞞せられず。便乃ち、空手にして郷に還る。所以に一毫も仏法無し。」という一節がありますが、ここでも目は横にあり、鼻は真っ直ぐにあることがわかりました、というような、当たり前のことが書かれています。そして、何も持たずに中国の修行から戻ってきたので、仏法もありません、とまで言ってます。

このように「柳は緑、花は紅」と似たような、当たり前のことを言っているように思われます。

深見東州先生によると、この言葉の本当の意味するところは、「虚心坦懐に、素直に物事を見る中に奥底を悟る」ということでしょう、と言われています。

わかりやすくいうと、真髄というものは、特別なところにあるのではなく、実は日常の平凡な中にありますよ、という意味になるようです。ワールドメイトでは、本当の神の教えは、全て生活の中にあると言われています。

禅語には「遍界不曾藏」、真性は隠されたことはなく、いたるところに出ていますよ、という言葉もあります。たとえば山が高くて地が低いのも、仏法がむき出しになったものになるようです。

少々難解になってきましたので、続きは次回に

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