明るすぎる劇団・東州定期公演2016が、5月14・15日に新国立劇場で開催されました。今回は、深見東州先生(戸渡阿見団長)が南アフリカへ行く飛行機の中でひらめいたという「残酷な天使のナットウキナーゼ」と、南アフリカから日本へ帰る飛行機の中で浮かんできたという「へそ」の、二本立てでした。演目数は、少なくなりましたが、その分、中身が濃いお芝居になっていたと思います。

 

「残酷な天使のナットウキナーゼ」は、黄金の仏像のような姿の仏さんと、現代の若者が主人口です。

仏さんは、その着ている服や姿を若者からダサいよ言われ、エンゼルの姿になったらと言われますが、なかなかなりきることができません。そこに、まるでロックスターのような格好でお釈迦様が現れ、仏さんの慈悲の足りなさを嘆かれます。仏さんはやがて悟り、エンゼルの姿になることができ、観音の位へと登るのでした。そして、再びお釈迦様が現れ、梨を仏さんに与え、ナッシーエンゼルと名付けるのですが・・。

と、あらすじを書いても、何が何だかわからないと思いますので、少し解説をします。この物語は、3つのポイントを理解しないと、そこに隠された深遠な意味がよくわからないようです。

その3つのポイントとは、法華経の観世音菩薩普門品第二十五の観音経の教えと、白隠禅師の「大悟徹底すること七度八度、小悟徹底すること枚挙にいとま無し」というどこまでも脱皮するという教えと、バハイ教や大本の万教同根の教えの3つなのだそうです。

 

ますますわからなくなったかもしれませんので、順番に説明した方が良さそうですね。

まず観音経は観音様のお経ですが、観音さまというのはあまりにも慈悲が大きいため、その慈悲は大慈大悲となって現れるそうです。大慈は、母のような大いなる慈しみであり、大悲というのは、その子の幸せを本当に考えて試練を与えるという父の愛です。子供に厳しくするときに、心の中で、その子の将来のためには仕方がないと悲観しているので、大悲というようです。

愛が大きくなると、このように母の優しい大慈と、父の厳しい大悲の愛となって出てくるわけです。そして、それも相手の様子を見て、ある時は将軍、ある時は商人、ある時は子供の姿となって、33相の姿に化身して衆生を救うのでした。相手のことを本当に思っているから、自分というものが無いわけです。自在に相手を観て、知恵が深いからこそ、相手に合う姿に化身して導かれるのでしょう。慈悲が大きいからできるそうです。

ワールドメイトで何度も聞いた内容でしたので、さすがに私も知っていました。その部分が今回の物語では、お釈迦様に諭され、仏さんが現代の若者の前に現れる時には、本来の姿ではなく、エンゼルにだって化身するということにつながるのでしょう。このお釈迦さま(観音様)の慈悲というものが、第一のメッセージのようです。しかし実際は、途中にギャグあり、歌あり、ダンスありで、ストーリーが飛んでしまいそうでしたけどね。かなり皆んな笑ってました。

 

釈迦

 

そして2つ目は、明治以降に、中東から出てきたバハイ教、日本では大本という万教同根の教えを持った宗教が登場しました。万の宗教は、皆同じところから発生しているとしたのです。宗教というものは、その時代その時代において、その民族にふさわしい教えとなって、神様がわかりやすく出てきたものだというのです。例えばお釈迦様は、生まれ変わっても奴隷は奴隷のままというカースト制度のインドで生まれた教えなのだそうです。生まれ変わってくることが悲劇だったので、涅槃寂静すれば生まれ変わってこなくても済むという教えになって出てきたのでしょう。日本の死生観とはかなり違います。

キリスト教も、その時代の社会があまりに悲惨なので、この世のことを思わずに、あの世では、貧しきものは幸いなりという教えが説かれたのでしょう。現実界に幸せを求めることができなかった時代だったから、そういう教えになったようです。イスラム教も、基本的には同じなのだそうです。ただしユダヤ教、そして神道は、この世の繁栄を大事にするので、全く違うそうです。

アブラハムは神試しを受けますが、自分の子供よりも神を選んだことで神の祝福を受けることになり、子々孫々までの繁栄を約束されました。それは、アブラハム個人というのではなく、ファミリーの繁栄、コミニティーの繁栄なのです。

神道もそれは同じで、個人ではなく、家やコミニティーの繁栄なので、反社会的になりようがないということです。

現世否定型の出家主義ではないわけで、生業をおろそかにせず、家や村や社会を大事にして、子々孫々繁栄するという神の祝福がある宗教なのです。

 

話をまとめますが、同時代に出てきた万教同根の宗教に続いて、60年代から出てきたニューエイジといわれるシャーリー・マクレーンのような、宗派など関係ないムーブメントも起きてきました。それらは現代の時代に合わせた形で、出てきているものなのでしょう。

そして、既存の宗教も、お互いに愛が大事だとか、かなり教えが似ていることが理解され始めたそうです。もちろん違いもありますので、違いは尊重しながらも、共通項もあるということで、お互いに争わず、世界を良くし、平和にしようという宗際化運動が広がっているそうです。

若者も、そういうニューエイジから影響を受けて出てきたスピリチュアルなものには、関心が高いわけです。今はそういう形となって、神様が出てこられているのかもしれません。同時に宗際化運動が広がり、既存の宗教も協力し結びついているのかもしれません。

そういうメッセージも、実は、今回の物語に秘められていたようです。仏様がエンゼルになるところなどが、そうなのかもしれません。しかし、実際はギャグと笑いの演出でしたので、深遠な意味を理解できなかったかもしれません。

 

シャーリー・マクレーン

 

そして最後になりますが、禅的なアプローチも、メッセージとして入っていたようです。臨済宗中興の祖である白隠禅師は、先ほど書いたように、悟りとは一回や二回ではなく、何度もなんども悟るものだということを言われました。人間は死ぬまで脱皮を続けるということです。それが「大悟徹底すること七度八度、小悟徹底すること枚挙にいとま無し」ということです。そのように、どこまでも悟りを深くするには、一つ悟っても、また無になって、次の壁を突き破っていくのだそうです。

これは演劇でも、書でも、音楽でも、なんでもそうなのだそうです。本当の芸術家はそういう生き方をしているそうです。一つのことを成したら、また、無しにして、次に向かっていくのが本当のアーティストだそうです。そこを今回の演出では、お釈迦様が仏さんに無理矢理梨(無し)を食わせるところで表現されていたそうです。観音の位になっても、それを無し(梨)にして、次の悟りを目指して行きなさいということなのでしょう。そして、会場のみんなに向かっても、梨(無し)が、ばら撒かれました。そこは会場が大きく沸いた場面でしたが、実は、そういう深い意味があっての梨投げだったそうです。そんなことは、さすがに最後の深見東州先生(戸渡阿見団長)の解説を聞くまでは、全く気が付きませんでした。梨をキャッチできた人はラッキーでしたね。

そのような、とても深遠な意味が隠された今回の明るすぎる劇団の公演となったのでした。

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