明るすぎる劇団・東州の定期公演は、昨年で6回目でした。毎年毎年、必ず新しい試みや取り組みが見られ、進化を続ける「明るすぎる劇団東州」ですが、旗揚げ当初から少数精鋭にもかかわらず、人気の方はだんだんメジャーに近づいているようにも感じます。

特に一昨年からは大きく変わったなと思いました。あらたに本物のプロレスをお芝居に導入するという、それも初代タイガーマスクやブル中野というブロレス界で一世を風靡した名選手が登場する、奇想天外なチャレンジのせいもあったと思います。しかし昨年は、さらに新たな展開へと進んでいました。2014年までとガラッと変化しました。新たな劇団のすすむ方向性を示していると感じるものがありました。

 

2015年7月9日日刊スポーツ
2015年7月9日日刊スポーツ紙面より

 

ところで明るすぎる劇団を知らない人のためにも、ざっと歴史を振り返ってみたいと思います。旗揚げは、ホームページを見ると2007年の5月になっています。ワールドメイト会員にも、その旗揚げのときに、お話をされていました。簡単に言うと、深見先生の原作の短編小説を上演する劇団といってもよいでしょう。私のようなワールドメイト会員は、ついに劇団を結成された、という感じでした。深見先生のことですから、お芝居や映画製作、アニメ製作など、やがて手がけられるだろうと思っていましたから。

アニメに関しては、「神頼み入門シリーズ」という、非常に完成度の高い作品を、20年以上前に製作されています。その後も「サイキッカーセイザン」というシリーズを製作され、いずれも隠れた傑作として評価は高いです。今見ても古臭い感じが全くしません。何度見ても、また同じところで感動するほど飽きません。

 

ところで、劇団ができたきっかけですが、深見先生の懇意にされてた劇団員が、なかなか業界でやっていくのも大変で、という話から、じゃあ劇団を結成しようかということになったとか。一応きっかけはそんな感じかもしれませんが、深見先生の舞台芸術の才能と、抜群のユーモアセンスを知っているワールドメイト会員にとっては、劇団を作ることを、当然のように受け止めていたように思います。

それから劇団の歴史を振り返る時、並行して語らないといけないのが、2007年9月に発売された、深見東州先生初の短編小説集「蜥蜴」になります。ペンネーム戸渡阿見で、当時、新鮮な感覚の小説として、書店の間でも評判になり、ベストセラーにもなりました。劇団の元ネタとなる原作ですから、戸渡阿見ワールド全開なのは当然です。人間ではないものが主人公や脇役で多数登場するのが、明るすぎる劇団のひとつの特徴となってますが、この作品集を見ても、当初からそうだったことがわかります。そして、読んでいるうちに不思議な感覚に陥りますね。小説を読むと疑似体験するといいますが、その対象となるものが人間ではないので戸惑いを覚えますね。でも同時に、妙に親近感も湧いてきますから不思議です。

戸渡阿見ワールドではなくても、たとえば夏目漱石の「我輩は猫である」は、私の大好きな小説のひとつですが、あれも、はじめから猫になったような気持ちで読んだのを思い出します。しかし、猫ならかわいいし、身近にいますから、その気持ちになりやすいでしょうけど、戸渡阿見の作品では、虫とか、雨とか、果物とか、あるいはう◯ち、お◯っこなんかまでが、人間と同じように描写されます。はじめは、オっと思いますが、作者の愛情がこもっているのか、だんだん馴染んできますね。そうなると戸渡阿見ワールドに惹きこまれています。

ところで、この処女作には大変長い前文が収められています。これが素晴らしい名文です。同時に戸渡阿見の文学論であり、戸渡阿見作品の根幹の解説文として理解しました。少しばかり引用しようかと思いましたが、全文を読まないと、しっかり理解できない内容なので、時間がある方はこちらから読んでみられることをお勧めします。

短編小説「蜥蜴」前書きエッセー

ここで深見先生は、純文学やエンターテイメント文学を書く作家よりも、SF作家、ファンタジー作家、ホラー小説、ギャグ小説、パロディー小説、ケータイ小説、アニメ作家をずっと下に見ている現状に、大いなる疑問を寄せられています。その理由は、読んでみると本当に納得します。詳しい理由は読んでもらうとして、結論だけをあえて書くと、「芸術的な価値は人々の深層意識の中にあるはずで、社会で長く愛され、市場価値があり続けるものが、本当の芸術的価値があると判断しても、間違いとは言い切れない。なので、ジャンルによって、文学としての芸術的価値を高く見たり低く見たりするのは納得しかねる」とのことなのです。

たとえば、世界に冠たる日本のコミック、アニメは、江戸末期に現われた浮世絵と同じだといわれます。その当時の、文人画家は浮世絵を見下していましたが、現代では、世界がどちらをより高い芸術として評価しているのかです。つまり、アニメも、将来そうなる可能性だってあるわけです。現代はますます映像、視覚、通信文化が発達し、その反面で活字離れをしています。百年経ったとき、今の何が生き残り何が淘汰されるのかは、わかりません。何が主流となり芸術的価値を評価されるのかは未知数なのです。だから他のジャンルや、世の移り変わりに対して、作家はもっと謙虚であるべきだということでした。

それと、初めて小説を書かれた時に、小説は宗教、哲学、ノンフィクション以上に、人間や社会の本質を書けるのか、書いてもそれで救いになるのか、論語や仏典などに勝てるものが書けるのだろうかと思ったそうです。作家が宗教や哲学を極め、経済、政治を経験して極めたとは思えない。しかし、人間や社会の本質を書くのではなく、体験を積んで、そこから湧き出たヒラメキや物語には、その文体や調べに作者の魂の気韻生動や味わいがあり、それが小説の芸術性だと思ったそうです。そして古典の名作に、そんなものが多いそうです。

深見先生は、多くの公益活動や芸術活動を実行するなかで、すでに現実において、シリアスに人間と社会を見つめ、実行し、救い励ましてこられていますので、だから小説を書くならば、宗教も哲学も政治も経済も歴史学も心理学も科学も真似できない、小説にしかできないものをと考えたそうです。そうすると古来の歴史の中にヒントがあったそうで、世界や日本の文学は、「うた」と「ものがたり」に集約できるそうなのです。「うた」は短歌、連歌や俳句、詩文、作詞で、「ものがたり」は、伝承や民話や神話、人間ドラマの「源氏物語」とか、戦記物、伝奇物などです。そして、「うた」の本質は詩心であり、「ものがたり」の本質は、面白さだと思われたそうです。だから社会や人間の本質とは関係ない、「うた」の詩心と、「ものがたり」の面白さがある文学が、宗教、哲学、ノンフィクションにはない、文学の本質だと考えるそうです。

「うた」の詩心については、すでに歌集や詩集をたくさん発表されています。なので小説では「ものがたり」の面白さを追求しているそうです。今までにアニメやコミックの原作は作られましたが、短篇集は、ラジオドラマや演劇の原作にもなり、童話の絵本にもなります。そこで、シェークスピアよりダジャレ、下ネタが豊富で、オチがあり、既成の文学観にとらわれない自由な発想で、面白さをクリエイトしたいとのことです。

そして究極の理想は、「うた」の詩心と、「ものがたり」の面白さが、見事に融合した作品で、それを至上の文学と考えるそうです。過去では、シェークスピア、ゲーテの作品、源氏物語、夏目漱石や三島由紀夫の作品などが、そうだと言うことでした。

と、かけあしで、結論だけを書いてきましたが、詳しくは、さきほどのリンクから、全文をしっかりと読まれてください。深見先生が戸渡阿見としてどのような作品を書きたいのか、おおよそ理解できるかと思います。それが頭にあると、明るすぎる劇団・東州の作品も、よりいっそう楽しめるものになると思いました。

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