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2016-03-01

2016氷見でのワールドメイトのご神業


ワールドメイトの氷見神業が終わりました。氷見はさすがに北陸の豪雪地帯ですから、温暖化が進んでいると言っても、この時期はやはり半端じゃなく寒いところです。しかし雪が降ると、なんだか嬉しくなるのが不思議です。ワールドメイト会員には、特にそんな人が多いようです。子供のような純真な心を失ってないのでしょうか、そうであれば素晴らしいことですが。

 

氷見

 

それはさて置き、今回は、久しぶりに深見東州先生の問答を聞くことができました。と言っても20年前とか、15年前に行われたものですが。

深見東州先生のお話の特徴の一つに、後から再びその話をビデオなどで聴いても、全く新鮮なものに聞こえてしまうというものがあります。確かに一度ならず、二度三度聴いてるはずなのですが、それでも新たな話であるがごとく新鮮な気持ちで聞くことができるのが不思議です。好きな音楽とかならわかりますが、映画でも、そう何度も見たいとは思うものは少ないですし、何度も見ると飽きてきますからね、どうしても。

 

ワールドメイトで行われる問答は、議論や説法ではなくて、禅の臨済宗の問答に似ています。臨濟宗では、師家が求道者やお弟子に対し、仏法に関する疑問を問い、問われた者はそれに対して答えていきます。その目的は見性して覚るためです。臨済録や碧眼録などを読むと、その様子がよくわかります。ただ、意味はよくわからないものばかりです。日本では白隠禅師の隻手の公案が有名ですが、両手を打てばパチンと音がするが、では、右手の音はどんな音だというものです。こんなこと言われても、普通の頭で考える人は何も答えられないでしょう。何か答えても、禅師から馬鹿者と叱られるだけが関の山です。

これは耳で聞くのではなく、頭で考えて答えるのでもないそうです。分別の知恵を超えて、魂の奥で聞くと聞こえるというのが、この隻手の公案なのだそうです。ますます混乱してきますね。わかりやすく言うと、追い詰められて、自分の頭ではないところの、体の奥から出てくる声で答えるようです。

 

なかなかできそうにありませんが、こういうものをすることで、顕在意識の奥にある潜在意識が出てくるのでしょう。そのためには体全体で考えて体全体で表現するのだそうです。だから、みんなそうだと思いますが、学校で勉強をしてきた人というのは、なんでも頭で考えて答えるという癖が付いているので、問答の体全体で表現するということがなかなかできません。

神様のことも同様で、頭で考えても理解できるわけがないし、わかるはずがありません。だからこそこういう禅問答で、少しでも分別を超えて、頭で考えないで体の奥から出てくる言葉で答えるような訓練をすることにより、神様のこともわかってくるのでしょう。そういう意味でワールドメイトでは禅宗を学ぶようです。

ただし禅宗ばかりやっていると、偏りのある人になりかねないので、あくまで観念を破って神界に入る基礎として役立つので学んでるのです。

 

禅

 

そう言われてみると、大本の出口ナオも、天理教の中山みきも、慈悲深く信仰は熱心でも、あまり学問を積んだとは書かれていません。そういう人の方が、神様を理屈ではなく体で理解できるのかもしれません。ユング風に言うと、顕在意識よりも潜在意識が発達しているのでしょう。顕在意識の強い人は、なかなかこの潜在意識は使えないようです。

かといって瞑想したりして、自分の中の潜在意識を見ていこうとしても、やはり簡単にはいかないでしょうし、問題も多いようです。それに潜在意識だけ引っ張り出しても、顕在意識でこの世のことをしっかり磨いてないと、今の世ではまともに生活できないのではないかと思えます。

 

ワールドメイトでは、潜在能力のような、能力を超えた超能力を見よう見ようというのはされません。それどころか顕在能力をしっかり磨き、その上で一厘を足してあげるとくるっと潜在能力が前に出てくるという御魂返しというものがあるそうです。だからある程度顕在的なものを積みあげてないと、潜在的なものも出てこないそうです。何もない人には引っかかる材料がないので、潜在意識も前に出てこれないのでしょう。

 

ユングは、潜在意識と顕在意識は融合してバランスがよいのが良い、と言ってたらしいです。深見東州先生のように、潜在意識も顕在意識も両方とも高度に発達し、使えるというのが理想なのでしょう。そういう人は、ほとんどいないと思いますが。

そこまでは到底行けないかもしれませんが、このようなワールドメイトの問答などにより、少しでも神界の入り口に行けるようになりたいものです。

 

ワールドメイトの問答では、追い詰められると、だんだん日頃の自分の心の奥に思っていることが、口から出てくるようになります。そこまでは別に驚くようなことではありません。しかし、あるところまでいくと、自分で思ってもみなかった言葉が出てくるのです。それが魂から出た言葉のようです。

ワールドメイトに入会した後、神社でこういう経験をしたことがあります。具体的な内容は言えませんが、神社であることを祈っていると、だいたい日頃から思っていることが、どんどん祈りの言葉として出始めました。そこまでは普通です。しかしある瞬間に、自分でもなんでこんな祈りをしたのだろうというような内容を祈ってしまいました。それは、普段から思ったこともないような内容であり、しかも、そんなことを自分が願うはずがない内容なのに、思わず口をついて祈っていたのです。

その時は自分でもびっくりしましたが、その後からすぐに状況が変わり始めて、あっという間にその祈った内容の方向へ動き出し、4ヶ月後には願ったことが叶ってしまったのです。しかも、本来ならば願ったところで、すぐに叶うはずがない事柄だったのにもかかわらず、いろいろな偶然が次々とおきて、そうなってしまったのです。つまり、自然な形でそうなったように端からは見えたかもしれませんが、普通に事情を知ってる人からすると、ありえないことがおきたわけです。

これは自分の意思で願ったことなのか、おそらく自分の魂がわかっていて願ったのかもしれません。とても不思議な体験でした。

 

それから禅でいう見性ですが、それは生まれながらに自分の心の中にある本質を、霊的な覚醒によって全身全霊でわかって成仏する、つまり、その瞬間に人間が仏様そのものになることだそうです。禅宗では、そのために生涯をかけて修行されているのでしょう。

しかし見性したからといっても、別に世の中の役には立たないし、また、他力も動かせないそうです。しかも、もし今の世の中で禅の見性だけを目指すのなら、すべての仕事を辞め、家庭を捨ててその道に入らないといけません。そんなことは、現代では不可能ですし、またそれだけのことをする意味があるのかないのか、よくわかりません。

それで日本では、昔から禅宗と他の分野が結びつき、剣禅一如とか、俳禅一味とか言われてきました。俳句や芸道、また剣術の道を極める中において、禅的な境地と結びついたわけです。そうやっていけば、この世の剣術とか芸術とかスポーツなどと結びついているので世の中の役に立ちます。そして禅宗の見性の境地はその中に生きていくことになります。そうやってきたから、日本では禅宗も滅びずに残ってきたのでしょう。元になったインドや中国では、純粋な禅宗のみであったため、とっくの昔に滅んでしまっています。逆に言うと、それくらい禅宗の境地は、後を継ぐのが難しいものだったと言えるのかもしれません。

 

昔、ワールドメイトでいろいろな問答に参加したことを思い出しながら、久しぶりに聞くことができた、今回の氷見神業でした。

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