本日は深見東州先生の書の作品集を紹介します。
●深見東州の書
●作者 深見東州
●発売日 2012年8月28日
●発行所 株式会社求龍堂
●内容 一行書、一字書、文字遊び、カレンダー題字

深見東州の書

美術評論家のワシオ・トシヒコ氏が、深見東州先生を評した一部を紹介します。

「深見東州……。このスーパー・アーティストの存在を喩えるなら、繊細に呼吸する巨大な『創造の森』としか形容しようがないだろう。仄聞するところによると、音楽はオペラ、シンガーソングライティング、軽演劇、京劇、能。文学は短歌、俳句、詩、小説。美術は絵画全般、書、陶芸、グラフィックデザイン。そうした全てを演じ、あるいは創作するというのだから、ただただ呆れ果て、天を仰いで驚くばかり。『この道一筋』を職人芸術国家のニッポンでは、こうしたマルチタイプのアーティストを、ときとして、『器用貧乏』と称して軽視しがちだ。とんでもないこと。多くが理不尽な妬みにすぎない。恵まれた才能の土壌が肥沃であればあるほど、野太い幹となり、四方八方に勝手に枝葉をぐんぐん伸ばし、やがて見事な『創造の森』となり、繁茂する。海外ではレオナルドダヴィンチ、ミケランジェロ、ピカソ、国内では本阿弥光悦、宮沢賢治、北大路魯山人、岡本太郎、池田満寿夫などの例をあげると切りがない。深見東州は、そうした先人たちの系譜につながる一人かもしれない。」

巨大な創造の森という表現のしかたもあるのですね。万物を創造する大宇宙のような方だとワールドメイト会員の私は思っていますが、それはよいとして、たしかに日本ではなんでもできる人を器用貧乏と呼ぶ人がいます。しかし一つの分野においてさえ、この道一筋の芸術家のはるか上をいき、それがいくつも存在する深見先生の場合、レオナルドダヴィンチやミケランジェロのような万能性の人たちと同列以上なのは疑いようのない事実です。的確に表現する言葉すら見つからない気がします。

そのことを書き出すときりがないのでやめますが、この書の作品集にかぎっていえば、技術的なものを超えたとしか思えない、深見先生にしか書けない書もおさめられています。そういう意味ではお宝のような作品集ですが、それに言及する前に、書の芸術とは何かについて述べられているのを紹介します。
私はワールドメイトに入会して、はじめて書の芸術にふれましたが、それまではより上手に書かれた書が素晴らしいのだろうと思っていました。つまりお習字の世界でした。

一般には字形、線質、両義性(バランス)の3つが書の3要素と言われていて、書家はそこを練磨するそうです。しかし、最終的に書の芸術性は気韻生動に表れると、ワールドメイトで深見東州先生は言われていました。 あまり聞きなれない言葉ですが、線質や墨気から書いた人の気品や風格が滲み出ていて、生き生きとした気や余韻が動いているという意味であり、深みや暖かさを感じ、部屋に置いておくだけで作者の生命力を感じるというのが、書芸術においては大事なのだそうです。字形、線質、両義性ももちろん大事なのでしょうけども、究極的にはそこなのでしょう。

そしてすべての芸術は、作品に宿る作者の魂や命の輝きに、すがすがしくて瑞々しい気品や暖かさがあり、磨き抜かれた威光や味わい、力感が溢れているのが最高でしょうと言われていました。 そういう意味でいくと、この「深見東州の書」に収められた書こそ、そのような作品たちであると思います。

「深見東州の書」

それでは次に、深見東州先生にしてはじめて可能である書を紹介しますが、まずは畳3畳はあろうかという巨大な書です。数年前、ワールドメイトの知人と実物を見てきました。驚くような大きさです。こんなものをどうやって書けるのか、巨大な筆を思い通りに動かし、書かれたのでしょうけど、困難さは半端なものではないでしょう。しかも、字のバランス、余白と墨の色の絶妙なる調和、それでいて力強いエネルギーにあふれ、かつ神々しい品格さえも感じます。女流書家の竹中青琥氏は、なんの迷いもなく、祈りを捧げ、一気に書ききったものであり、神品そのものという批評をしていました。

それからこちらも凄いとしか言いようのないものですが、歴史上の人物などから、◯◯ならばこんな「喝」ということで十数種の違った筆跡で同じ字を書かれています。しかもどれも魅力的な味がある書体であり、個性が輝いているのです。これなどワールドメイト会員の私は驚くことには慣れていますが、普通に見ると仰天するか、意味がわからずポカンとするしかないでしょう。 前述の竹中氏の解説によると、深見先生は和漢の名筆を鑑賞し、様々な筆法を実習してインプットされているとのことです。さらにそれをいつでも取り出せ、応用し、独自なものにできるのだそうです。それだけでも驚くべきことです。

そして、何時間も集中して練習するうちに、あるときから人間でなくなり、神がかったように自由自在に形、線質、力の均衡、濃淡、スピード、筆法を使い分け、書き分けられるのだそうです。その結果、まったく違った個性あふれる作品が、数分間隔で生まれていくのだそうです。

なぜそんなことができるのでしょうか。竹中氏によると、現在そのように気韻生動まで自由に書き分けられるのは深見東州氏だけだということです。歴史上では弘法大師、白隠禅師、そしてワールドメイトでのお話にも時々出てくる出口王仁三郎などもできたそうです。空海や王仁三郎は密教の「如」、つまり◯◯の如くなりきるという境地や秘儀を体得しており、白隠は「動中の静」の禅境を体得していたそうです。そのような人たちにして可能な書なのだそうです。そして深見先生の書もそれと同じであり、また鼻につく自己主張やちっぽけな我など何もない邪なき書でもあり、まさに神書であるとのことです。

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