深見東州先生とブラインドゴルフとの出会いからの続きになります。

 

ブラインドゴルフの世界大会、第4回「ワールドチャンピオンシップ」が日本で開催

1988年5月、故松井新二郎氏の協力により、上井草ゴルフセンターでスタートした「ブラインドゴルフ倶楽部」ですが、当初はプレーの遅延を招くとか、コースが損傷するという誤った認識により、ブラインドゴルフに門戸を開くゴルフ場はありませんでした。しかも1988年といえば日本経済はバブル景気の真っただ中であり、リゾート地開発の波に乗って次々豪華な設備を持つゴルフ場が誕生する中、土地価格は上昇し、ゴルフ場の会員権も高騰していた頃です。そんな景気の良い頃だけに、借りるのは余計に困難なことだったでしょう。

しかし、そんなことでめげる深見東州先生ではないことは、ワールドメイト会員はよく知っています。全国のゴルフ場を周り理解を求める深見東州先生の熱意により、2ヶ月後には千葉廣済堂カントリー倶楽部が、4ヶ月後には神奈川の清川カントリーが貸してくれるようになります。

そうして10月に開催が決まっていた「ブラインドゴルフ・オーストラリア・ワールドオープントーナメント」の国際大会に、4名の日本選手が出場を果たすことができたのでした。そして次の年には、千葉県姉ヶ崎カントリークラプが貸してくれ、2回目の「ブラインドゴルフ・オーストラリア・オープントーナメント」に、再び4人の選手が参加しています。

1990年以降になると、活動の幅も広がり、技術の向上なされ、いろいろな大会で日本選手の活躍が目立つようになります。 以下に一部を紹介します。

 

  • 1990年9月、第1回ブラインドゴルフ・ワールドチャンピオンシップに、招待選手を派遣、ベスト10に入賞。

 

  • 1990年10月、第3回ブラインドゴルフ・オーストラリア・ワールドオープン」に派遣した選手が、女子B1の部で優勝。

 

  • 1991年4月、「ブラインドゴルフ倶楽部」を改称し、「日本盲人ゴルフ協会」(略称JBGA)が発足。関西でも5人のゴルファーが加わり、関東以外の練習拠点もできる。(1996年には、「日本盲人ゴルフ振興協会」と改称。)

 

  • 1993年10月、「ブラインドゴルフ・オーストラリア・チャンピオンシップ」で、派遣選手がB1クラス、プロアマ大会で優勝。

 

  • 1994年8月、日本で初めての正式なブラインドゴルフ大会となる「ブラインドゴルフ・ジャパンオープン・チャンピオンシップ」を、多摩市桜ヶ丘カントリークラブで主催。派遣選手がB1大会で優勝。

 

  • そして、1996年には、日本で第4回「ワールドチャンピオンシップ」が6カ国、45名のブラインドゴルファーの参加で開催されます。日本盲人ゴルフ振興協会がこの大会を主催し、NHKをはじめ、多くのマス・メディアがとりあげました。当時、ワールドメイト会員の私の記憶にもたしかに残っています。

 

ブラインドゴルフ大会

 

「世界ブラインドゴルフ協会」の発足、初代総裁に深見東州先生が就任

さらに1998年9月、2年間の準備期間を経て、「世界ブラインドゴルフ協会」が発足します。世界各国、各地域の代表が規約を批准し、初代総裁に深見東州先生が全会一致で推挙されます。深見先生は世界中のブラインドゴルファーが一堂に会せる組織を作るため、かねてより各国の盲人ゴルフ協会に働きかけておられましたので、それが評価されたのでしょう。

この間に当初の「ブラインドゴルフ倶楽部」は、「日本盲人ゴルフ協会」、さらに「日本盲人ゴルフ振興協会」へと名前も変わり、いっそうブラインドゴルフを推進支援する体制強化がなされてきました。
はじめの数年間は、試行錯誤しながら細々と運営してきたそうですが、組織の本格的な構築を進め、視覚障害者の志賀功さんが会長になり、ブラインドゴルファーたちが自己実現の一環として運営もやるように変わっていったのです。それによって組織も本格化し、日本でもブラインドゴルフという福祉文化が欧米と同じレベルになるまでに、一人歩きを始めたのでした。それで深見東州先生は名誉会長に退かれ、メディアへの紹介に取り組んでいかれたのです。そうすると、ゴルフの経験がなくても、失明したことをきっかけにゴルフをしたいという希望者が出てきたそうです。その願いを叶えるためにも、深見先生は優れたスタッフ陣を構築しなければと、いっそうの努力を続けられるのでした。

私が感心することはいくつもありますが、なかでも日本のバブル経済が崩壊し、企業が芸術・文化スポーツの支援・保護からどんどん撤退するさなかの時期に、このブラインドゴルフを支援し続け、かつまたゼロから育てて、福祉文化として根付かせた深見東州先生の忍耐と根気と愛情の大きさと知恵に感心します。お金の支援をいくら行っても、それも大変なことだと思いますが、それだけで人は育たないし、ブラインドゴルフも普及しなかったでしょう。視覚障害者も自己実現をすることはできなかったでしょう。障害者への福祉といっても、そんな簡単なものではないと、ワールドメイトに入会してわかったことです。

 

ゴルフを通して、半田晴久先生は真のハイクオリティ・オブ・ライフを与えて下さる方

故松井新二郎氏は言われます。「私は常々、障害者は不自由であっても決して不幸な人ではない、と言い続けてきました。しかし、世の中には、いろいろ障害を持った人を、可哀想に気の毒にといって同情や憐憫の目で見る人が大勢います。確かに不自由ではありますが、ちょっとお手伝いして頂ければ、あとは全く普通の人なのです。ですから私は長い間、障害を持った人も、社会の中でみなさんと一緒に生きてゆけることを願って活動してきました。端的にいえば、障害者に対する差別と偏見をなくしていただきたいと思います。差別というのは、制度上の問題としてとらえれば法律が変わればいいのです。国家公務員の点字受験が認められたようにあらゆる資格試験が点字で受けられるようになったり、誰でも利用しやすいように公共施設の不便さが改良されることが望ましいのです。これに対して、偏見というのは心理的な問題ですから、徐々に根気良くお互いの意識を変えていくしかありません。身障者がどのような社会生活を過ごしているかを見るとその国の福祉レベルがわかるといわれています。目が見えなくともゴルフを、スキーを一緒に楽しむことができる福祉もここまでくるとその国の文化と言えるのではないでしょうか。私は半田先生の勧めで『手の中の顔』という本を出版させていただいたのですが、その反響は大きく、少しずつ社会の目が変わりつつありことを感じています。」

このことをわかって取り組むことができるのは、深見東州先生でなくてはできなかったでしょう。松井氏は、「半田先生は、真のハイクオリティ・オブ・ライフを与えて下さる方だと思います。私たちは、目は見えなくても、ツエの響きで天気がわかり、声の調子で相手の顔つきや表情がわかります。視覚障害者は観音菩薩のように音で世の中を観ているのだと思っています。私は目に障害を持った人がゴルフを通じて生命の歓喜を知る姿は、経済大国の日本が真の文化国家になることにつながると確信しています。」と言われていました。

 

深見東州 (半田晴久) 先生と女子シニアゴルフとの出会いへ続く。

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