深見東州(半田晴久) 氏の年間イベント一覧
「釜石の出来事」は奇跡ではない・・

東日本大震災から、まもなく4年が過ぎようとしています。2012年10月、ちょうどワールドメイト富士箱根神業が行われていた頃だったと思いますが、東京でIMF世界銀行総会が開催されました。そこで災害に苦しむ途上国への対策を提言するために、東日本大震災から32の「教訓集」をまとめ、その中で人命を救った成功例として「カマイシ・ミラクル」が取り上げられました。「避難へかりたてるために人々の意識をどう変えるか」という難問解決の道筋を明確に示し、世界貢献の大きな柱にするためでした。

この「カマイシ・ミラクル」・・、「釜石の奇跡」とは、岩手県釜石市の沿岸部にある9つの小中学生の避難率がほぼ100%だったため、避難の成功例として「釜石の奇跡」と呼ばれているものです。ただしこの呼び名に対しては地元で異論もあり、奇跡ではなく日頃の防災教育の成果ということで、また亡くなられた方の遺族への配慮もあり、「釜石の出来事」と表現しているそうです。そのような呼び名の事情を理解した上で、防災教育のモデルとして、日本や世界における災害への備えに役立つ内容であることに変わりはありませんので、大いにヒントにしたいと思います。

専門家によると、関東も東海も、西日本にも巨大地震がいつの日か来ると言われています。また、ワールドメイトでもたびたび取り上げられてきました。現実の対応として、すべての人が知っておくべき内容ではないかと思います。

当時の全児童を対象としたアンケート調査の結果では、回答者1512人のほぼ全員が3・11の当日、気象庁や行政の災害情報を待たず、直後に避難を開始したそうです。避難をしようと決断した理由について、「防災無線や気象庁の大津波警報などの災害情報」とした記述は数件で、ほぼ全員が、自分の判断や教師の指示などにより「地震の揺れがおさまった直後、すぐに避難を開始した」と回答したそうです。「上履きのまま走って逃げた」「逃げることに一生懸命で、津波は見なかった」と答えた児童生徒も多数いて、津波で全壊した唐丹小学校では、「全員が高台に避難後、津波警報を聞いた」ということです。さらに直後に避難を開始し、時間的余裕が生じたので、「避難をしぶる祖父母や父母を説得し避難させた」「体の不自由な同級生をおぶって逃げた」「低学年の児童や幼稚園児の手を引いて逃げた」など、周囲の人の避難を誘導している様子も随所にみられたそうです。

避難見直し作業のアドバイザーを務める片田教授は「津波からの避難は地震を感じたら、すぐ行動を開始することがベストであることを示した。迅速な行動が災害弱者への救援活動にもつながった」と評価したうえで、「津波を起こす地震がどのような性質か、どれぐらいの時間で津波が到達するかを知っていれば、災害情報に頼らなくても避難できる」と、防災教育・訓練の重要性を強調しているとのことです。

これだけでもすごいことですが、なぜこの地域の児童だけが、そのような徹底した行動を取れたのでしょう?実は釜石市では、震災以前から群馬大学の片田教授らによる防災教育が徹底されてきました。震災当日も教授が提唱した「想定にとらわれるな」「最善を尽くせ」「率先避難者たれ」という「避難の3原則」を、子どもたちが忠実に守り、その結果、この奇跡が起こったと言われているのです。

もともと釜石市は、何度も大きな津波災害が起きた地域です。特に明治29年の明治三陸地震では最大38メートルの津波がおきています。釜石市では8メートルを超える津波によって、4000人以上が死亡しました。ところがそんな悲惨な歴史も意識から薄れ、近年では津波警報が発令されも誰も避難しなくなったそうです。それではいけないと、皆の意識を変えようと立ち上がったのが、群馬大学の片田教授です。片田教授は、2004年のスマトラ沖地震のときには現地にまで行き、改めて巨大な津波災害の深刻さに衝撃をうけたそうです。

巨大防波堤

当時、釜石市は、釜石港の入り口に全長1660メートルの、水深63メートルの深さから立上げた大防波堤を築いていました。6メートルの津波は防げる世界最大水深の防波堤として、ギネスブックにも登録されました。また各家庭にも、津波対策のハザードマップを配り、災害対策に勤めていました。しかし災害は、思わぬ規模でやってくるということで、防災対策に関心の高い人だけでは被害は防げないと感じた教授は、釜石の小中学校で直接子供達に津波対策のための授業を行うことを思いつきます。市の防災課も小中学校の生徒向けならと、教授の熱心さにほだされ、取り組みを許可します。そうして教授は生徒たちに、「ハザードマップの想定にとらわれるな、地震が来たら、津波から逃れるために最善を尽くせ、率先して避難せよ」と、徹底して教えたのです。

その成果として、たとえば今回の東日本大震災では、海岸から1キロのところにある鵜住居小学校は、津波による浸水想定区域外でした。明治、昭和の津波で被害がなかったからです。なので地震直後にいったん校舎の3階に児童は集まりますが、隣りの釜石東中で、生徒たちが校庭に駆け出しているのを見つけます。そこで日頃の合同訓練を思い出し、自らの判断で校庭に駆け出し、児童ら約600名は、500メートル後方の指定避難場所の高台にまで避難をはじめます。そして裏側の崖が崩れはじめ危険を感じた生徒たちは、さらに500メートル先の高台を目指して駆け出します。その30秒後、その場所は津波にのまれたのでした。この間、避難開始からわずか10分の出来事でした。最初に避難した3階建ての小学校も、津波にのまれていました・・・。

片田教授は釜石市内の小・中学校で、このような防災教育を年間10数時間行ってきたそうです。中でも私が感動したのは、子供たちに、「いざという時は僕は必ず逃げる。だからお父さんやお母さんも必ず逃げてほしい」ということを、心から信じてくれるまで伝えるよう指導していたことです。そうでなければ、両親は子供のことを心配して、小学校にまっさきに来るでしょう。するとどうなるかは目に見えています。

さらに、ご両親にもそのことを直接伝えます。子供たちは自分のことを心配してくれるがゆえに、お父さんお母さんが命を落とすのではないかと思っていることを。でも、子供が絶対に逃げていることを信用できなければ、親も一人で逃げる決断ができないだろうから、その確信が持てるまで十分話し合ってほしいと伝えていたそうです。

今回の津波により、生き延びた3000人の児童の親で亡くなられた方が40人いらっしゃるそうです。釜石市内全体では1300人もの人たちが亡くなられていますので、一概に比較するわけにはいきませんが、そのような対策がなければ、もっと多くの方が犠牲になられていたかもしれません。「釜石の出来事」は、たしかに奇跡ではなく、やるべきことをしっかりと教育してきたからだったのでしょう。これは今後の防災への教訓だけに留まらず、いろいろなことへの教訓になると思いました。

最後に余談になりますが、当時、民主党の岡田副総理が福島原発の事故について述べた記事を紹介します。

岡田副総理は6日、三重県桑名市で講演し、東京電力福島第一原子力発電所事故について、「いろんな関係者が言っているが、事故は幸運だった。最悪の場合は東京圏も含めて汚染される可能性があった」と語った。岡田氏は講演後の記者会見で、発言の意図について「そういう(最悪の)事態になれば、福島でももっと影響が出て、高濃度に汚染されていた。現状でもひどい状況だが、最悪の事態を考えれば幸運にも助けられたということだ」と説明した。(2012年10月6日22時40;読売新聞)

同じような内容の発言は、他にも多くあったと思います。福島原発事故が、当初からきわめて危険な状況にあることを深見先生がすぐに察知され、ワールドメイトで緊急に御祈願をはじめたことを思い出します。今思うと、深見先生のワールドメイト会員への愛情溢れる教育があり、そしてワールドメイト会員も先生を絶対的に信頼する関係が日頃からあったればこそ、すぐに行動につながったのだと思います。緊急事態のときこそ、そのような日頃からの強い信頼関係が、大きな力になるのでしょう。

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