深見東州(半田晴久) 氏の年間イベント一覧
ワールドメイトで、人間から見た幸せと、神様から見た幸せの違いを知る

ワールドメイトに入会して、おかげが出る祈りの方法を知ったわけですが、同時に、おかげ信仰にはまらないようにしないといけません。昨日書いたように、自分の困った時だけ必死で祈るというのは、誰にでもある傾向ではありますが、そればかりだと本当におかげ信仰になってしまいます。おかげ信仰がなぜいけないのかは後で述べますが、もうひとつ、おかげが出る祈りを知った時に、絶対に知っておかなければならないことがありますので、今日はそれについて書いてみます。

一般的に多くの人は、神様のおかげを感じることもなく、一生を終えてしまうかと思います。それはそれで残念ではありますが、最近の風潮からいくと仕方がないのかもしれません。でも、いったんワールドメイトでそういうおかげが出る祈りを覚えてしまうと、おかげが出るのが当たり前のように思えてくるから不思議です。すぐにそうなるかどうかは別にしても、祈りを極めていけばいくほど、その思いは強くなるように思います。

祈りというのは、ワールドメイトで祈りの基本である入門編を習うと、そこに最も大事な法則が述べられていて、だから、誰でもすぐにおかげが出るようになるのですが、だからと言って、それで終わりではなく、更に奥へ奥へと先があります。ワールドメイトで深見先生の祈りの話を聞いていると、本当に、どこまでも深いレベルと応用があり、どこまでも極めていくものであることがわかってきます。

その詳細を文章にして説明することはできませんが、そうやっておかげが出だすと、あるときから、突然おかげが出なくなることがあります。あるいは出にくくなるといってもよいかもしれません。人によって感じ方に個人差はあるようです。

そんなとき、いままで祈ってきた祈りに不安が出てきます。この祈りで本当に良いのだろうか、どこか間違ってはいないだろうかと。そういうふうに謙虚に見つめ直せる人は、まだ良いのですが、どうかすると、この前まで証だと思っていたのは、実は偶然に過ぎなかったのだろうかとか、本当に神様っているのかなとか、そんな気持ちに襲われる人も多いようです。せっかく証が出て、神様がいるんだと強く信じていたのに、その気持ちが揺らいでくるわけですね。そういう人は、けっこういると思います。

ここで、ひとつの結論として、いままで証(おかげ)が出ていたから、実は神様がいると信じていただけだったことが判明します。つまり、証が出れば信じるけど、出なければ信じなくなるという、自分自身の都合で神様に対していただけだったのです。こういう姿勢を本当の信仰心のある姿だと思う人は、おそらく誰もいないでしょう。はじめから神様を信じていない人でも、さすがにこれは、単なる人間の身勝手にすぎないと思うのではないでしょうか。あるいは、だからはじめから神様などいないのだと、改めて軽蔑の眼差しで見るかもしれません。まあ、どう思われてもいいのですが、要するに、宗教用語かどうかは知りませんが、ワールドメイトでは、これをおかげ信仰だったと言います。お陰があるかないかというのが、神を信仰する一番の基準になってるから、そう呼ぶのだろうと思います。

これのどこが問題なのかというと、神様は別に人間の都合のために存在しているわけではありませんから、当然間違っているわけですね。では、神様とは人間にとってどういう存在なのかというと、人間の都合を叶えるために存在しているのではないことは確かとしても、人間を幸せにしたいと思っている存在であることも、また確かだと思います。そしてここが大事なところですが、神様から見た人間の幸せと、人間が感じる表面的な幸せには、かなりギャップがあると思います。

たとえば、ある人にとっては、大好きな人といっしょになることが最大の幸せになることだと思っていたり、大金持ちになることが、最も幸せの近道だと思っていたりするわけです。それは、あながち否定できない部分もありますが、しかし、神様からみた人の幸せの本質とは、少し違いがありそうです。具体的には色々なケースがあるように思います。

たとえば、大好きな人であっても、その人と一緒になることで、のちのち大変な不幸が待っているかもしれません。相手の男性が実はDVに変身する場合もあるでしょう。あるいは、相手の金遣いが荒くて、後に莫大な借金を作ることもあるでしょう。神様から見ると、先々がわかるわけですから、そういうときは、あえて願いを叶えないほうが良いだろうと判断されるかもしれません。でも、これはありがたいことですから、本当は良いことのはずなのですが、人間から見れば、そんな先のことまではわからないので、神様への不信につながる人もいるでしょう。それで、あとになって、その男性が別な人といっしょになって本性を現したときに、やっと、神様に守られていたんだと気がつくことになるでしょう。あるいは、もっとすばらしい人が出てきて、その人と結ばれて幸せになったときに、これで良かったんだと思うのかもしれません。だったらはじめからそのように、神様は先々のことを考えて、私の幸せを思って願いを叶えて下さらなかったに違いないと思うほうが良いでしょう。そうすることで本当にそのように、あとあと幸せになるようにして下さるようです。

 

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それから別のケースでは、本当はこれが一番多いのではないかと思いますが、因果の法則からくるものがあります。つまり、善因善果、悪因悪果という天地の法則の存在です。仏教では有名な説ですし、儒教でも一部には、同じような言い回しが見られます。一般的には、仏教では前世や来世のこともふくめた長いスパンでこれを説き、儒教では、今生きている人生において説く場合が多いようです。しかし、宗派によってもいろいろな説があるようです。詳しい内容についてはまたにするとして、この法則を理解していれば、同じように願っていたとしても、証(おかげ)が出やすい人、証が続く人、証が大きい人もいれば、それとは逆に証が出にくい人、証が続かないか出たり出なかったりする人、証が小さい人など、いろいろなケースがあるのもすべて納得して理解できるはずです。

その上で、だったらどうすればいいかというと、たとえ悪因縁があろうが、悪い結果が出ようが、因果に気持ちが左右されることなく、積極的に善根善行を積むべく覚悟を持って生きることを、ワールドメイトでは言われます。そうすることで、最短で良い形になっていくわけです。
この天地の法則は神様が決めたものですから、神様を信仰しようがしていまいが、誰にでも当てはまるものです。神様を信じているからといって、一部の宗教にあるように、すべてが無条件で救われるなんてことはありません。相応の苦は必ずあるものです。でも、神への信仰心が極まっていると、次のケースのような素晴らしいことがあります。

3つ目のケースは、ワールドメイトでよく言われるのですが、神様の大愛によって、その人の悪業を縮小して早めに精算して下さる場合です。そういうことが始まると、おかげが止まり、何か悪いことが起きたりもします。自分のことで恐縮ですが、私も入会してあるときから、内面に関するような悟りの証だけは続くのですが、現実的な証、とくに物欲に関する証は途絶えて、そして環境がいろいろ悪化したことがありました。でも、入会から3年目にガラッと信じられないくらい激変し、すべての環境が良くなり、願ってもないことまで整ったりして驚いたことがあります。そのときに、これが、そうではないかと思ってましたけど、今考えても、そうだったんだと、はっきりとわかります。つまり、早くその人の背負う重み(悪業)を減らしてあげるために、一時的に良い証は出さないで徳分を温存し、逆に厳しいことを早い時期におこして、その辛かった分に見あうだけの悪業を、早めに無くされたわけです。そして、ここが重要ですが、おそらく大変だった分以上の、おそらく1.2倍か1.5倍か、余計に無くすというやりかたをしてくださっているようです。神様は、信仰を真剣に極めたいと思っている人に、こういうことをされるそうです。そうすることで、早く、神様や人のために役に立てる人間にしようとされるのでしょう。

信仰を極めるというのを別な言葉で言うと、まず、魂を磨いていくことだと言えそうですが、真実な道を求め、清純な魂となり、神様に近づき、世のため人のためにお取り次ぎができるような自分を目指すことだろうと思います。だから神様も、そういう思いで精進するのなら、早くその願いを叶えてあげようと、大きな愛情でもって、あえてそのようにして下さるのでしょう。

そして、単に苦しむのでは無く、あとあとまで役に立つ苦しみになることが多いと思います。よく、あのときの苦労があったからこそ今の自分があるんですと、いたるところで、有名人のそんな話を聞きますが、それと同じで、そのときの苦労が、その人を立派に鍛えるためのものであり、それが結果として成功につながっていくわけです。同じ苦労といっても、そんな前向きな苦労になることが多いように思います。とはいっても、渦中にいるときは、なかなかつらいもので、なかなかそう思えないかもしれませんが・・。

以上、幾つかのケースで考えてみましたが、神様の存在とは、人間から見た都合で動くのでは無く、神様から見た人間の幸せという尺度で動いているのだと思いました。それが人間の生まれてきた本当の意味にもつながり、人生や信仰の本質にも繋がっていくのだと思います。

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