深見東州(半田晴久) 氏の年間イベント一覧
ワールドメイトで学んだ、人間だけが持っている大切なものとは?

ワールドメイトに入会して良かったと思う瞬間はたくさんありますが、深見先生から直接大切な事を教えていただけるひと時も、素晴らしい瞬間のひとつです。なかなか他では聞けそうで聞けない話しがたくさんあります。その中で、とてもシンプルなお話ですが、思い返すほどに腹に染み渡るお話をひとつだけ紹介します。

「人として最も大切なものって何でしょう?」

それは愛だと言う人が多いかもしれませんね。ワールドメイトに入会するまで、私は、少しでも立派な人になる事だとか、素晴らしいねと言われる人になる事だとか、そんなことを思ってた気がします。それらも、もちろん大事なことかもしれませんが、まったく予想外のところに答えはあるものです。

それは、好き嫌いを超越したもの、有意義であるとか有意義ではないとかを超越したもの、この世的な利害損得を超越したものなのです。わかりやすい言葉で言うと、「義の心」だそうです。

たとえば、人類愛に皆が目覚めれば、もっと平和で争いの無い世になるでしょう。でも、わかっていてもできません。身近にいる人にすら、十分な愛を向けているとは思えません。でも、神さまだったら、おそらく人間同士のように、あの人のことは気に入ってるから良くするけど、こいつは気に入らないからいやだとか、そんな風な事は考えないでしょうね。あるいは、いっときはその人間を愛してたけど、アホらしいから、もうやめましたとか言う神さまもいないでしょう。神さまなら、相手がどうであろうと、最後までそのひとの事を見捨てないし、好き嫌いの感情で見ないし、愛する価値があるかないかなどの基準で考えて、愛するかどうか決めることなど、なおさらしないでしょう。

愛とか人類愛と言っても、好き嫌いを超越した、有意義であるかどうかなどを超越した、利害損得などを超越したものでなければ、一時の愛情、一時の人類愛の精神で終わってしまうわけです。それで終わらせないためには、義の心がある愛でなければならないわけです。

 

たとえば動物にしても、自分が産んだ子どもはかわいがるし、守ろうとします。あるいは仲間同士で協力して、敵から自分たちの子どもを守ろうとする動物もいます。動物にしてもとか言うと、動物好きな人から叱られるかもしれませんが、子どもを守る本能というか、愛情というものがあるんですね。

もちろん人間にも、それは同じように備わっています。でも、人間には、動物だったら絶対にしないであろう行動をとることがあります。たとえば濁流に流されて溺れている友人を救おうと、自分の命の危険も顧みず飛び込んで助けにいこうとする人がいます。その人はヒーローとして、皆から絶賛されますが、時に本当に自分の命を落としてしまう事もあります。自分の安全だけを第一に考えるならば、なかなかそんな勇気ある行動はできません。でも、そんな行動を取る人に、世の中の人々は惜しみない拍手を送り、賞賛の声を捧げます。

今、再び話題になっている福島原発事故において、当初、現場を離れずに対応した数十人の人々も、日本と世界を救ったヒーローだと言う人は多いです。会社としての責任があるから当然だという人もいるでしょうけど、死の可能性が迫ってくれば、ふつうは逃げたとしても無理も無いと思います。

世の中の人がヒーローだと思うのは、皆、そういう自分のことの利害損得抜きで、友のため、仲間のため、世のため人のために行動する人、皆のために悪に立ち向かう人なのだといえます。ヒーローものの映画やアニメの主人公は、皆、そういう自分のことより義に生きた勇気ある行動をとる人がなってるはずです。そういう人に人々は感動するし、素晴らしいと思うし、心から絶賛するのだと思います。すべて、義の心から来ているからなんですね。

その義の心が、人だけが持ってる、人間として一番大事なものなのだそうです。動物は子どもを守る事はあっても、子ども以外の仲間が野獣に喰われそうになったときに、これを助けなきゃと、自らが喰われることを畏れずに飛び込んで行くトムソンガゼルやシマウマはいません。子どもを守る本能はあっても、義の心は動物には無いからです。

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それから、これもワールドメイトでときどきお話しされますが、お葬式に行くことを無情の楽しみにしている人は、あまりいないかと思います。私もそうです。お葬式に行くと、沈痛な思いや悲しみに満ちています。それを故人の身内の人と共有することは、それなりに意義がある事だとは思います。でも,少なくとも葬式が大好きだから行く、興味があるから行きたいということは、私の場合、まずありません。すすんで行きたいという気持ちには、なかなかなりにくいものです。

しかし、亡くなった人や親族に対して義理があるし、そう思うと、やはり行かなくては行けないと思うわけです。そういうことも、小さい事なのかもしれませんが、やはり義の心があるから行くわけです。お葬式に限りませんが、そういう類のことは他にもいろいろあるかと思います。義務とかにもそういうものが多いと思います。

たとえば税金を払うことも義務ですが、税金は、自分にとっても社会にとっても有意義ですから当然払うものですが、しかし最近は税金を無駄遣いしているとか、自分が必要だと思うものに使われないからという理由で、払いたくないという人もいるようです。その気持ちもわかりますし、実際に無駄に使われないように監視する機能は必要です。ただし、自分にとって有意義とは思えないからという理由で、もし多くの人が税金を払わなくなったら、国は成り立たなくなるでしょう。やはり多少不満があっても、払いたくないなと思っても、実際は払う人が圧倒的に多いかと思います。なんだかんだ言っても国を支える財政基盤ですから、それに払わないと行政処分もありますからね。

義務教育などもそうでしょう。また、法律を守る義務とかもあります。義務とか義理とか、そういうやらなければいけない事が、人間社会にはたくさんあります。面倒くさいなと思う事もありますが、それがないと、文化的な社会は成り立たないのでしょう。

もしも義の心が無い国があれば、これは私の想像ですが、基本的に自分と身内のことだけを考える、身勝手な、信義、恩義、礼節、秩序の無い、平気で人を騙し、強いものに媚び、弱いものは平気で捨てられる国になるのではないでしょうか。実際に、それに近い酷い地域もあるかもしれません。

今まであげてきた例でもわかるように、「義の心」というのは、身近な義理や義務のような事柄から、もっと積極的で勇猛果敢なヒーローのようなケースまで、いろいろなパターンがあります。あるいは、神の義に生きたい願う、ワールドメイト会員のようなケースもあります。

いずれにしても、義の心があるということが、人として尊い大事な部分であり、これを無くしてしまうと畜生と変わらなくなって、ひたすら本能と煩悩のまにまに生きるようになるのでしょう。そうなると文化性も普遍的な愛も、もちろん宗教性を持つなども絶対にありえません。義の心を持ってる動物はいないように、義の心があるから人間らしく生きれるということを、ワールドメイトで学んでなるほどと深く納得しました。

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