深見東州(半田晴久) 氏の年間イベント一覧
禅とワールドメイト

ワールドメイトは何教?

ワールドメイトでは、禅に関するお話をよく聞きます。深見東州先生は、「禅宗や老荘思想を勉強すると、少なくとも神道の一部はよくわかる」と言われています。神さまの掌握の仕方は、多分に禅的であるそうです。あるいは老荘的でもあり、儒教の現実を尊重する姿勢も、理解するのに役に立つそうです。

 

また、西洋のキリスト教には、神道には足りない博愛精神という良いところがあり、イスラム教は清真のピュアな宗教という面があり、ユダヤ教に至ると、神道と共通する慣習が多く見受けられのだそうです。

 

いろいろな宗教に対し、そのような理解がワールドメイトにあるので、神道を理解するうえで、また、真実の教えを学ぶために、禅宗を始めとするさまざまな宗教の教えが登場し、縦横無尽な講義をされるわけです。

 

ときどき、「ワールドメイトは何教ですか?」と、疑問に思う人もいるそうですが、「少しでも多くの人が幸せになればいい、世の中が平和で良くなればいい」という、宗門宗派に拘泥しない、普遍的な宗教性を求めるからこそ、様々な宗教の教えをワールドメイトで紹介されるのでしょう。

 

だからワールドメイトには、ワールドメイトの会員になった人が現実的に幸せになれるためならと、「真言密教」を応用した「神伝密教」もありますし、お盆には仏教のお盆供養を大きくバージョンアップした先祖供養も行われます。

これらはワールドメイトの一番大事な役割ではありませんが、でも、「それで人々が幸せになるのなら」というので、仏教的な要素も取り入れてあると思います。

 

この辺りのことは、なかなかすぐには理解できないかもしれません。実は、すべての宗教の神さま同士は、とても仲が良いそうで、それがわかると理解できるようになると思います。

 

欧米人も禅に関心がある人が多い

とりあえず禅宗について、書いてみたいと思います。

近年、オリエンタルなものに興味を持つ欧米人が多いそうですが、多くは禅であったり、老荘や道教のようなタオイズムなどに関心があるようです。本当は昔から、キリスト教やイスラム教の長い歴史の陰に神秘主義的なグノーシスや不老不死を求めた錬金術などの存在があり、それらは老荘や神仙道などの東洋思想も学んでいたようです。

 

禅はインドの達磨大師にはじまり、そのインドの哲学的な禅が中国に伝わると、六祖慧能禅師からは中国風の生活禅になっていきます。そして爆発的に広まっていきます。それが栄西や道元によって日本にもたらされると、武家社会に拡がっていきました。

その後、中国では廃れてしまい、今では日本にしか残っていないと言う、不思議なことになっています。

 

ですから、今、欧米人が禅に関心を持つということは、日本に関心をもつことと、同じような意味になるのでしょう。

 

禅

ワールドメイトで知った禅のポイント

海外では、禅を東洋の神秘のように思う人もいると聞きました。私も昔はそう感じていたことがあります。それ以前に、「難解で全然わからない」という方があたっていたかもしれません。

 

それではまず、ワールドメイトで聞いた禅宗の教えのポイントを紹介します。禅に関しては、いろいろな見方があると思いますが、まず「不立文字」という達磨大師が見性したときに発した言葉を理解する事が重要だそうです。「不立文字」とは、文字に立たない。つまり「お釈迦様の教えの神髄は文字じゃない」という意味になります。この言葉だけで、とても深い意味があります

 

次に達磨の四聖句に『教外別伝』という言葉がありますが、要するに教わったり言葉で学んだりする以外に、別に伝えるものだと言う意味になります。本当はこのふたつだけでも、相当な説明がいると思いますが、ここでは簡単に書くにとどめます。

 

次は『直指人心』です。これは座禅によって己の心を見つめると解釈されている人もいますが、ワールドメイトによると、『刻々と移り行く人の心をパッパッパととらえて、いかに悟りを開くかの指導をする」という意味だそうです。そういえば臨済録を読むと、臨済禅師の弟子への激しい指導がまさにそういう感じですね。

次々と相手の揺れ動く心をとらえ、その境地を追いつめて最後には見性に導くと言う、普通に考えていては到底理解できないやり方が展開されています。今は、ここまでされる禅僧はいらっしゃらないでしょうけど、本来は、このような厳しい修行が禅の修行なのでしょう。

 

最後は『見性成仏』です。これは宗教に関心が無い人にとっては、極めて難解だと思います。要するに産まれながらの心の中にいる自分自身の本質を、霊的な覚醒によって、全身全霊でわかって成仏するという意味です。つまり、その瞬間、仏様そのものになるということです。

臨済録の中で、臨済禅師が弟子を扱くとき、「赤肉団(しゃくにくだん)上に一無位の真人有って、常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ」と雄叫ぶシーンがあります。この一無位の真人こそ、その人の本質であり、別な言葉では「御本霊」とか、「主人公」とか表現する場合もあります。その本質が、顔から出たり入ったりしてるのがわからんのか、見ろ、見ろ、と激しく迫るのです。

もしもワールドメイトで勉強してなかったら、なんのことやら意味がさっぱりわからないままでした。

 

meditation. 瞑想meditation. 瞑想 / T.Kiya

 

禅は神道の導入部分をカバーする

禅のポイントを簡単に紹介しましたが、次にワールドメイトでは、その禅とどのようにかかわっているのでしょうか。

ワールドメイトのベースは神道になりますが、その神道には、体系だった教えというものは残されていません。キリスト教やイスラム教、仏教のような膨大な教義教典はありません。古事記とか日本書紀のような神話的なものがあるだけです。神話には大きな秘密がありますが、それはまた別な機会にでも書いてみます。

 

そういう日本の神道は、いったいどういうものなのか、どういう教えなのか、なにをすればいいのか、ということを明快に説明できる人は、現代ではワールドメイトの深見先生をのぞけば、そうはいないと思われます。教義が無いわけですから、ある意味神道は、もっとも理解するのが困難な宗教かもしれませんね。神社のお参りくらいなら、どなたでもやった事があるでしょうけども、あるいはご祈祷を受けるとかそういうところで終わっているかと思います。

 

それでもご利益が出たり、しっかり神さまの守護を感じれる人は、まだ良いかもしれません。「ご利益はいまひとつ信じてないけど、古くからあるわけだし、神さまもいるのかもしれないしなあ~」などと中途半端な面持ちで接する人は、かなり多いでしょう。

そんな、目に見えない神なるものを、そう簡単にわかる人は少ないですから、仕方がないと思います。私もワールドメイトに出会う前までは、はっきりいって、今書いたそのままでした。

 

そんな人が、とりあえず禅の事を学ぶと、神道でいう目に見えない世界、目に見えない感覚とはどういうことかが、少し理解できるようになります。前回書いたように、禅は『不立文字』ですから、理屈や文字ではない世界です。しかしその理屈や文字ではない、見えない世界の感覚を、可能な限り文字や言葉で表現し,残しているのも禅なのです。

 

老荘も、目に見えない悠久の世界を言葉に残し、表現していますが、禅の方がさらに体系だって残されているわけです。老荘思想は、おそらく禅よりもさらに難解ではないかと思います。だから禅を学ぶ事を、ワールドメイトでは、すすめられているのです。

 

禅の教えによって、神道の目に見えない感覚の世界が、少しでも伝わる可能性があるからです。そうやって神道の導入部分を、禅の教えでカバーすることで、先に進んでいければ良いわけです。その先は、禅とは全く違う世界が待っています。

 

正法眼蔵随聞記から求道の精神を学ぶ

ワールドメイト、あるいは神道の導入部分を禅を学ぶ事でカバーすると書きましたが、具体的に私が禅の本を読んで良かった事を書いてみます。

ワールドメイトに入会して、初めて禅に関する話しを聴き、まず『正法眼蔵随聞記』を読むことをすすめられました。これは、道元禅師がどのような気持ちで仏道、禅に取り組んでいたのか、その取り組む姿勢、生き様がひしひしと伝わる本です。かれこれ、4、5回は読んだかと思いますが、神道やワールドメイトに限らず、およそ道という名がつくものを求める人には、必須のテキストかと思います。

 

仏教を極めることを仏道を極めるとも言います。神道には、神教ではなく神道という、はじめから道となっています。他にも日本では、剣道、柔道、合気道、茶道、書道・・など、武道や芸事に道と名が付いているものが多いです。単なるスポーツではなく、あるいは芸術の一つというよりも、人として極めた生き様や境地に向かう、その道のり、プロセスが、そこにあるからでしょう。

 

境地を極めるというのは、神のような境地、と言ってもいいかと思います。そんな境地があるのかと言われそうですが、経営の神さまとか、打撃の神さまとか、世の中には「〇〇の神さま」と称される人たちがいます。達成したものが偉大であり、その道において、人間とは思えないような心技体を発揮する場合に、そう呼ばれるのではないでしょうか。

本当の神様ではないですが、そう呼ばれる人の生き様には、なにかしらそのような足跡が残っていると思います。

 

道元禅師も、仏道において、素晴らしい偉大な足跡を残した一人でした。特に、その仏道を極めんとする求道心たるや、すさまじいものがあります。なかなかここまで徹底して実行できるものではありません。その様子を知るとき、仏の道を極め、悟りを開き、生きながらに仏になるような人とは、ここまで修行をしなければいけないのかと思ったものです。何事も、そこまで命がけでとりくむとき、その分野を通して道を歩んでいるのかもしれません。

 

しかし、その中で道の終りに達する人は、ごくわずかであるのも事実なのです。そういうある意味厳しい、道に取り組む姿勢を、この、『正法眼蔵随聞記』は教えてくれます。

 

私も昔読んだ時は、人生に奮い立ったものです。それくらい、良い意味で感化されるものがあります。それが継続できるかどうかは、その人次第と言えますが。私は恥ずかしいですが落第気味です。

 

しかしワールドメイトの深見東州先生は、そういう厳しい道をいくつもいくつも達成された方です。いくつもという言い方が適切でなければ、とてつもなく太い道を歩まれ、しかも前人未到の領域まで到達した人といっても言い過ぎではないでしょう。だからこそ万能の天才とか、現代のレオナルドダヴィンチなどと、多くのその道の専門家が呼ぶのでしょう。

 

実際には、レオナルド・ダ・ヴィンチ以上だと評されているのを聞きました。それもワールドメイト内の人たちだけではなく、それ以外のところから、最近ますますそのように言う人が増えています。

 

私に言わせると、ダ・ビンチや弘法大師のように、歴史に残っているような多くの分野に偉才を発揮した偉人たちと比べても、圧倒的に深見先生の方がすごいのではないかと密かに思っています。なにしろ、その実行してきた内容と、そのレベルの素晴らしさ、また、そこに至るまでの精進努力の一端を、ワールドメイト会員の一人として間近に見てきましたので、そんな思いに至るのでした。

 

芸術家が禅に傾倒する理由

深見先生はワールドメイトで、「禅は、文字や言葉ではない世界を、文字や言葉ではないところで深く受け取り、文字や言葉や芸術の技術を通して、それを表現する事ができる」と言われています。

そして、深見先生は芸術について、「絵画、音楽、書道、彫刻などで、そこから出て来る気韻生動のあるやなしやの程度が、芸術の良し悪しの判断で問題となる」と言われていました。そこが生きて動いているかどうか、そこに芸術の神髄があるようです。

 

ですから書でも絵でも、ただ上手に書いただけでは、芸術性があるとはいえないわけです。そこが、芸術としての書、絵の難しいところといえるでしょう。だから絵を描く人、書を書く人は、禅へ傾倒する人もいるのでしょう。逆に、白隠など昔の高僧の中には、すばらしい禅画や書を残してきた人たちが大勢います。もちろん、ワールドメイトの深見先生も、数々の絵画や書の作品を残されています。

 

私は、深見先生の絵や書をたくさん拝見してきましたが、その技法、技術、創造性に抜きん出ていて、だれも真似できないのではないかと思います。それに加えて、絵や書から迫ってくる迫力や、あるいは柔らかい繊細な気であったりなど、さまざまなものを感じます。深見先生の作品には、いずれにも、深見先生の高貴な魂の息吹が宿っているのだと思います。

 

禅をやる人の陥りやすい欠点

ところで、禅の修行で、陥りやすい事柄があるそうです。それは、修行が悟りを開くための手段ではなく、目的になってしまう事だそうです。本当の悟りを開くと、人は、求道とともに慈悲行の実践という、その両方が、おのずから本然とわき起こってくると言われています。

 

しかし修行していくうちに、素晴らしい能力を得ることが修行の目的となってしまうようです。そうなると、人々を幸せにしたいと言う愛の原点を忘れ、本来、そのための手段としての修行のはずが、己の能力を得るという目的のための修行になってしまっているのです。もちろん、それでは本当の悟りには至りません。そこが、修行する人の陥りやすい部分なのだそうです。

 

わたしたちワールドメイト会員も、深見先生から何度もご指摘を受ける事があります。人の幸せを祈り、人の幸せを願ってやってますかと。ものすごく簡単であたりまえのことのように聞こえますが、ここが原点であり、はじめであり最後でもあるそうです。

 

これにはとても深い意味があって、それは、ワールドメイトの神法悟得会入門編のお話を聞かないと、おそらく永遠にわからない内容であると思います。20数年以上に渡り、ワールドメイトで本物の慈悲業を実践されてきた深見東州先生の足跡は、深見先生が本物の悟りを開かれた方であるという、なによりも動かしがたい根拠だといえます。

ワールドメイトでは、日常生活において実践する

神道は奥が深いと同時に、手がかりも少ないといえますが、禅が神道の奥深いところに入るための導入部になってくれます。といっても禅は難解ですから、どうやって勉強するのか、これもまた難しい問題です。なかなか座禅を組む時間などもありませんしね。

また、仮に座禅を組んで、なにがしかの悟りの境地を得ても、この慌ただしい喧噪の現実社会にいれば、たちまちに元に戻ってしまいそうです。

 

境地が定まる事を禅定と言うそうですが、修行されている禅宗のえらいお坊さんでも、そこまで至るのは至難のようです。だから禅では、師匠の次に偉い人は、典座と言ってお料理番をするそうですが、それは、お料理を毎日毎日、味が変わらずにおいしく作るには、境地が定まってないとできないからだそうです。

コンチクしょうとか思いながら作られたら、料理はまずくなりますからね。毎日美味しく作り続けることで、平常心が試され、禅定が試されるわけです。

 

十牛図と言う禅の古典にも、境地が最高まで行くと、最後は日常の世界に帰って行く図が描かれています。それは、そうしないと境地が完成しないからだと言われていました。ということで、ワールドメイトでは座禅とか禅のお坊さんのような真似はしませんが、生きた日常生活そのものを、そういう境地を磨く実践と思ってやる人はいます。

大死一番絶後に甦る境地とは

これで最後になりますが、『碧眼録』第四十一則に、須是大死一番。却活始得。という有名な言葉があります。ワールドメイトの話しの中にもときどき出て来ますが、通説では、「死んだ気になればなんだってやれる。死ぬ覚悟で何かをやってみる」などの意味があると言われています。もちろん、これは禅の境地を言ったものだと思います。

 

ワールドメイトでは、禅宗や、あるいは行者さんがやるような荒行などは一切行いません。日常生活そのものが大事だからです。でも、この大死一番という気持ちを、私は多少なりとも持ってやってきたつもりです。そんなにおおげさにいうようなことではありません、あくまで私なりのものですから。

 

すべてを捨ててと言うとかっこいいですが、実際は境地の上だけで、現実のお金や家族や仕事を捨てるわけではありません。そういう境地で、神様のふところにポーンと飛び込むと、自分の中でぎりぎりまで煮詰まった何かが、もう駄目かというところから、絶後に甦ってくるのです。

 

自分の腹の中に、捨てきれない迷いがあると、なかなかこの境地を越える事ができません。しかし、いったん飛び込んでしまうと、とんでもないような奇跡を体験をする人がワールドメイトでは多いのです。

 

昔の剣術においても、これを体験した人は実戦に強いようです。かえって、相手に斬られて死ぬ事が無いのではないでしょうか。この気持ちになりきれない人が、かえって、命を危うくするそうです。

 

もちろん神道は、平和でにぎにぎしい神の道ですから、剣術のような血なまぐさいものではありませんので安心してください。でもワールドメイトの深見先生は、おそらくいつもこの境地で何事にも対処されているのではないかと察します。だからこそ、いつも神様に守られ、かえって安全であり、すべてが成功し、奇跡的に物事が運んで行くのでしょう。

 

深見先生のそういう部分を、ワールドメイトで、もっと体得したいと思っております。それを学べるのが、ワールドメイトのすばらしいところですから。

 

あと、下記の記事でも、禅に関する内容を別な角度から書いています。良ければ合わせてお読みください。

 

 

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