ワールドメイトの深見東州先生が世界中から引っ張りだこの理由

ワールドメイトの深見東州(半田晴久)先生は、神道に基づくビジネス書も数多く出版されてきました。どれも実践的で、実際の経営者やサラリーマンから高く評価されています。また、著作だけでなく、26才から予備校をはじめ、時計や出版などいくつもの事業をおこし、成功した事業家としての顔もお持ちです。

もちろん、本来はワールドメイトの宗祖として、宗教家として有名な方です。基本的に神道は、聖と俗を区別しながら共存していきます。キリスト教やイスラム教や仏教の聖職者とは、そこの違いがあるかと思います。

深見東州先生も、聖の部分はワールドメイト、俗の部分は会社の経営者として共存しながら使い分けられていると思います。言うまでもないことですが、法的、資金的なものは、きちっと区別されているのは当然でしょう。

実は、松下幸之助や堤康次郎、土光敏夫、百田尚樹の「海賊と呼ばれた男」のモデルとなった出光佐三など、一流の経営者には神仏への信仰に篤い人が多いです。そういう人たちは、たとえば武田信玄のように本来は武将ですが、神仏への信仰心が篤く僧侶もやっているのと同じような感じだと言えるでしょう。つまり、生き馬の目を抜くような経済戦線で生き抜く企業人が、信心深く、聖なる神仏への信仰を実践しているといえます。なので、そもそも宗教家と経済人は両立するものであり、何らそこに矛盾することがないと言えるでしょう。

そのような武田信玄型の起業家と比較すると、深見東州先生の場合は、自らを上杉謙信型と呼ばれます。つまり、本来は僧侶なのに、そういう人が武将をやっている感じなのでしょう。深見東州先生は、本来は聖である宗教家なのに、俗である経済人とも共存できるのです。

ちなみに上杉謙信は、幼い頃から仏道の修行を続け、そのまま僧侶になる予定だったそうです。しかし、戦国の世はそれを許さず、謙信は戦に引っぱりだされるのでした。

謙信は戦であまりに活躍するので、とうとう家督を継ぐことになり、越後の国を平定してしまいます。素晴らしい戦の才能があったわけです。その奥には、戦の神、毘沙門天の守護があったそうです。

しかし、いったんは武将を止め、高野山に出家しようとしますが、周囲から戻るように懇願されます。謙信も上杉家が滅び、民が苦しむのを座視するに忍びず、止むなく武将として再び戦乱の世に出て行ったのでしょう。このあと上杉の家名を譲られますが、とにかく大義のためにしか戦わない人だったそうです。領土や名誉への野心がまったくなかったのです。このあたりが、ワールドメイトの深見先生と相通じるところであり、武田信玄型との違いだと言えるでしょう。

話しがそれましたが、私は、そういう聖と俗を分けつつ共存できる日本の神道の思想が、本当に素晴らしいと感じています。深見先生は、「万能の天才」と人から評価されますが、それも、神道的な精神があるからできたのかもしれません。

上杉謙信

また、ワールドメイトの深見東州先生は、素晴らしい宗教家でありながら、オペラや絵画などさまざまな芸術家としても一流であることが多くの人に知られています。最近は、福祉活動やスポーツ振興を通じての社会貢献も、かなり知られてきたと感じます。

あと、博士号をふたつもち、カンボジア大学の総長であり、海外の有名大学の客員教授をされるなど、高い見識と学識を持つ人でもあります。

そして、バランス感覚に優れた世界のスタンダードや常識や現実をよく理解した、適確な判断ができる方だといえます。宗教的に高邁な理想だけではなく、世俗のさまざまな現実社会の中に、しっかりと生きてこられたから、そのようになられたのではないかと感じています。

神道では、聖と俗を明快に区別するけど、共存するのが特徴だと書きましたが、深見東州先生も、聖なる宗教家として、芸術家として、福祉活動家として、この数十年の間、社会の公益に尽くして来られました。同時に俗の、厳しい現実を生き抜く経済人としても活躍されてきました。

その体験があるからこそ、きわめてバランス感覚に優れた、あらゆる対立する問題の解決策を出せるようになられたのではないかと思います。そして、多くの公益活動を支える現実的な実力になっているのだと思います。

いまや世界中の優れた人たちから、引っ張りだこの深見東州先生です。聖と俗の一見相反するものが共存し、だれも思いつかないような見識を示し、誰もできないような行動力があり、次々と困難なことを成功に導かれるからではないかと思います。

ワールドメイトの深見先生に触れた人は誰もが驚きます。だれもが万能の天才だと思うでしょう。そしてワールドメイト会員ではない人でも、人類の平和に向けて、深見先生に大きな可能性を感じるのではないかと思います。

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