8月4日から、世界中の高校生たちによる素晴らしい美術作品、書の作品が展示された「高校生国際美術展」が、新国立美術館で開催されていました。
開催に先立ち、恒例の表彰式が無観客で行われました。その中で、主催する世界芸術文化振興協会の半田晴久会長(深見東州先生)の挨拶から、内容の一部を紹介したいと思います。
このお話を聞き、深見東州先生が、なぜ欧米を中心とした世界の素晴らしい著名人たちと、仲良く、さまざまな活動に取り組むことができるのか、その本当の理由がわかると思います。そして、日本人が世界の人たちからリスペクトされるための、大切なヒントにもなっていると思います。
深見東州先生は、文化・芸術・スポーツはあらゆるものを超越して、人間同士がお友達になることができる、幸せになれる原点という考えをお持ちです。
芸術やスポーツには、言語や民族、宗教など、人が持つあらゆる要素を超えた、普遍的な価値があり、人類はその価値を共有することができます。そのためにも、文化や芸術・スポーツの価値を理解できる教養や文化性が必要になります。
しかしだからと言って、芸術の専門家になったり、アスリートにならないといけないわけではありません。素晴らしい芸術や文化に触れ、スポーツに触れていくことで、その価値を理解できるようになれると思います。
日本型のルネサンスとは
世界の歴史を見ると、王族や貴族、資産を持つ人々が、自国の芸術や文化を理解し、保護してきた跡を見ることができます。中には征服した王朝が、それ以前の王朝文化を壊すこともありますが。最近ではタリバンによるバーミヤンの仏像の破壊、イスラム国によるシリア・パルミラ遺跡の爆破などがありました。これらの行為は世界から強く非難されていましたね。
話を戻しますが、欧米をはじめとする世界の国々には、自国の文化を理解し、保護してきた大富豪や王家がいました。日本の場合も、もちろんいたわけですが、海外の国々の事情とは少し違っていました。その違いは、保護してきた貴族や皇族、武将たち自身が、その芸術文化の担い手となって振興していたことです。
芸術をただ鑑賞するだけではなく、みずから学び、実践していた歴史が残っています。室町期以降は武将が能楽を演じていました。また、皇族や貴族たちの中には、平安時代以降、一級の書家や文学、歌人として名を残している人も多いです。雅楽などの歌舞音曲においてもそうでした。国風文化と言われる貴族文化が栄えました。
そうやって日本の文化は、皇族や貴族、武家によって経済的な援助を受け保護され受け継がれてきたと同時に、自らも演じつつ芸術文化の振興に関わってきたとのことです。宗教においても、名高い僧侶の中に皇族や貴族の名が残っています。現代においては、黒田清子さんが、伊勢神宮の祭主を務められていますね。
今の欧米の文化といえば、やはりルネサンスから大いに開花したといえます。ルネサンスはフランス語で「再生・復活」という意味があります。長らく途絶えていたヘレニズム文化が、イスラム圏から逆輸入される形で、復活したことを指しています。
本格的なルネサンスは14世紀のイタリアから始まりますが、その時代はペストの大流行があり、当時の人々の死生観や宗教観にも大きな影響を与えたと言われています。死に直面する中で、中世のキリスト教の権威にしばられず自由に生きようとする気風が生まれてきたようです。
そのルネサンスの中心は15世紀になるとフィレンツェに移り、それを主導したのが銀行家であり政治家でもあるメディチ家でした。メディチ家は、オスマン帝国の侵攻によってコンスタンチノープルから追われてきたギリシャ人の学者や芸術家を保護したため、ヘレニズム文化はフィレンツェで開花し、16世紀にかけて隆盛を極めました。レオナルド・ダヴィンチやラファエロなどが活躍します。
その後はローマ教皇のカトリックが保護者となり、ミケランジェロなどにより、教会の壁画などが多く書かれました。
そのルネサンスが最盛期を迎える100年ほど前、14世紀の日本においても武家や公家、また禅僧の文化が融合した、室町文化の初期である北山文化が栄え、その後の東山文化につながっていきます。
庶民にも田楽や猿楽(能)、狂言が広まり、観阿弥・世阿弥親子によって能楽として大成していきます(能楽と称されるようになったのは明治維新後)。世阿弥の芸術論「風姿花伝」は今日でも非常に高く評価されていますね。
また、水墨画や絵画、文学、連歌、建築、庭園、工芸、彫刻、茶道、華道が栄え、その時代の文化に、わび・さびをはじめとする、現代の日本文化の美意識のルーツがあると言われています。
そして、それらを保護するだけではなく、自らも嗜んでいたのが当時の武家や公家でした。ルネサンスではメディチ家やフッガー家、ローマ教皇などが財政的、政治的に支えてきたのに対し、日本では保護するだけではなく、皇族や武家や公家自身が自ら演じることで、それらの芸術を振興させてきたわけです。そういう意味で、西洋のルネサンスに対し、日本型のルネサンスという言い方を、深見東州先生は用いられています。
また、この時期の文化人は、世阿弥、能阿弥など阿弥と名がつく人たちが多く輩出され、将軍家に仕えて室町時代の武家文化を担いました。
横道にそれますが、「阿弥」とは、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」から来た言葉です。「南無(なむ)」は、「帰依」の意味で俗人を表し、「陀仏(だぶつ)」は、仏の意味で出家を表します。「阿弥」は、「南無」と「陀仏」にはさまれた言葉で、俗人ではなく、出家でもない。また、俗人であり出家でもある、という意味を表すそうです。これは、一遍上人の教えから来ており、芸道に生きる生涯を通じ、俗人でも出家でもない「阿弥」として、一生涯、境涯や魂を高め続ける宣言をする言葉だと、深見東州先生は解説されています。
もともとは鎌倉時代中期、時宗の開祖である一遍上人の遊行に同行する人々を時衆と呼び、男性には阿弥の法名を附していました。ただ、 時衆が増えてくると、全員と遊行できませんので、大半の人たちは出家はするけども、日常生活の中で修行をすることになります。一遍上人は寺院を持ちませんでしたので、時衆は世俗で生活をしながら修行することを大事にするようになりました。
話を戻しますが、古くから途絶えることなく続いてきた皇室を中心に、それらを取り巻く貴族たちや時の権力者とともに、日本文化は発展しながら連綿と継承されてきたと言えます。古代の日本文化に中国やアジアの文化が融合してできた雅楽も、その後の日本文化に影響を与えながら、今でも廃れることなく継承されています。
そのように、日本には西洋のルネサンスに負けないだけの素晴らしい多くの誇るべき文化が、皇室を中心に継承されてきたのであり、そのような日本文化のアイデンティティーに対し、もっと誇りを持ってよいのではないかと深見東州先生は言われています。
チャールズ皇太子賞が設立された理由
ところで今回の高校生国際美術展においては、チャールズ皇太子賞という賞が設けられています。昨年から創設されましたが、今年はチャールズ皇太子本人による、ビデオメッセージも上映されました。なぜ、英国のロイヤルファミリーの、それも次期英国王になる皇太子からの特別な賞を、世界芸術文化振興協会が授かることができるのでしょう。また、授与した生徒たちは、チャールズ皇太子の財団が管理する、スコットランドのダンフリーハウスにも招待されるそうです。
そんな栄誉を授かれるようになったのは、チャールズ皇太子と深見東州先生との間にケミストリー(良い相性)ができているのが、始まりのようです。
チャールズ皇太子は、若い頃から文化や芸術にたいそうな理解があり、数多くの団体のペイトロンにもなっています。深見東州先生とは、公益活動を通じておつきあいが始まったようですが、最初に会った時から互いに良い印象を持っており、さらに何度も会う中で、ケミストリーがお互いに深まっていったようです。
バッキンガム宮殿に、チャールズ皇太子からゲストとして招待され、食事をしたこともあるそうです。そこで、オペラやバレエを鑑賞し、パーティーも開かれたそうです。その時に、招待客の前でチャールズ皇太子が、彼は相撲以外はなんでもできる日本人なんだよと紹介し、場内が爆笑したそうです。ユーモアのある、とても面白い方だそうです。
深見東州先生もユーモア抜群で、日本ではギャグの創作も多々されていますね。そして日本の伝統文化である能楽をはじめ、書道や日本画、茶道、華道に取り組み、師範の免状も取得されています。その上で、さらに西洋文化の代表とも言える、オペラやバレエ、西洋画にも取り組み高い評価を得てきました。
そのような実践に加えて、西洋と東洋、日本文化に対する造詣の深さは、その道の専門家かと思うほどで、並大抵のものではありません。そのような高い文化性とユーモアを持つ人物ゆえ、チャールズ皇太子とも、互いに好意を抱く良い関係が築けたのだなと理解できました。もちろん、英語も達者で、論理的に話せるだけではなく、相手と楽しくコミニケーションできるだけの言語力をお持ちですね。
そのようなユーモアと高い文化性、それも日本文化のアイデンティティーをしっかりと持った上で、海外の文化にも通じ、それらを言語で表現することができ、自分なりにパフォーマンスができると、世界の素晴らしい人たちとお友達になり、リスペクトされる日本人になれるのだろうと、今回の深見東州先生の話を聞いて感じました。