前回書いた記事と多少関連しますが、メディアで ”宗教と金” というテーマで、宗教団体に関するネガティブな記事をときどき目にします。
ひと口に宗教とお金と言っても、組織を維持するためにはどんな宗教団体でも、ある程度のお金が必要になるでしょう。僕ら信者側としては、信仰を深める機会や場所ができる大きなメリットが得られます。また、同じ仲間ができたりと、さまざまな恩恵もあります。
では、なぜ宗教とお金のことが批判的に、信者に被害者がいるように書かれるのでしょう。それは一部の団体に行き過ぎた問題となる行為があるからで、ワールドメイトをはじめ、多くのところは問題ないのでは、と思っています。
僕にはこのテーマを掘り下げるほど、巷の宗教団体に関する知識や情報は持ち合わせていませんので、今回は信者側として僕個人の普段から思っていることを書くことにします。
何に使うかは個人の意思と価値観を尊重
僕は、学生時代はアルバイトをしたり、社会人になってからも、人一倍働いて来たつもりです。それで、自分で稼いだお金を、プラス親からもらったお金も含めてですが、目一杯趣味につぎ込んできました。
スポーツ、ファッション、音楽、旅行、飲食など、さまざまなものに、軽く1000万以上は使ったかもしれません。
まあ、少し贅沢しすぎたとは思いますが、使ったことに対しては全く後悔したことがありません。他人からすると、無駄金を使ったと思われるかもしれませんが。
失敗もたくさんしました。ただ、それらも含めて、全て自分自身の人生における貴重な経験となって積み上げられていると、僕自身は思っています。実際、その経験がのちの仕事に大きく役立って来たのも事実なので。
一方、僕の幼馴染に、学生時代からコツコツとお金を貯め続けてきた友人がいました。贅沢や趣味は抑え気味にして、実家通勤だったこともあり、10年ちょいで、2000万近くの貯金になったようです。はっきりとした目的があって貯めていたわけではないようですが、金額の大小はあるにしても、そういう人も、世の中にかなりいると思います。
また、自分で稼いだ収入を、高級車購入に充てる人もいました。海外旅行に派手に使う人もいました。バブル世代の頃なので、羽振りよく使う若者は、今よりも多かったのかもしれません。
僕はしばらくしてワールドメイトに出会います。それからは贅沢や趣味を、できるだけ控えるようになり、その分、仕事以外は、ワールドメイトでの活動がメインになっていきました。
ワールドメイトは、基本、お金をかけないでも、それなりにやれる宗教ではあります。とはいえ熱心にやると、当時は全国津々浦々で神事を行なうなど、交通費を含めて、それなりのお金が必要になります。ただし、それも自由に選択ができます。
今回、なぜこんなことを書いたかというと、メディアやネットなどには、まるで宗教団体で使うお金は、無駄か、悪いことであるかのような印象を与えるものがあるからです。自分のお金を何に使うかは、その人の自由意思と価値観を、もう少し尊重するべきと思います。
単なる趣味や贅沢に使うお金と、信仰のために使うお金を同列に扱うつもりはありませんが、いずれも自分自身で稼いだお金を使っていると言う点では同じです。
しかし宗教に使ったお金は、無駄なものに使っているかのような蔑まれた印象を受けることがあります。最悪は、宗教団体は金儲けであり、それを儲けさせるために貢いでいるかのように書く人もいます。
その原因の一つは、過去に宗教団体に属していた人が、自分の意思で使ったお金であるにも関わらず、たとえ教団や人から勧められたものであったとしても、そのことを後悔しているように書く人がいるからでしょう。僕は自分の意志で使ったお金に関しては、趣味であれ、宗教であれ、反省はしても後悔はしませんが、世の中にはそう思わない人も多いのでしょう。
中には、恨み言を言う人もいますね。ただ恨んだり後悔すれば、結果的に、その後の人生においてマイナスにはなっても、プラスになることはないだろうと思います。
もし詐欺で騙されたのであれば別ですが。あるいは不当な強制などがあれば、それを証明できるのであればしかるべきところに相談したり、取り返す算段を練れば良いかと思います。
僕は若い頃、詐欺とは言い切れませんが、仕事に活かすわけでもないのに、電話営業で丸め込まれ、必要ない教材を買ったことがありました。50万くらいでしたけど、どう見ても5万程度の価値にしか思えませんでしたが。
それが良い経験になり、それ以来、怪しいものや、うまい話には引っ掛からなくなりましたので、今思うと安い買い物だったと思っています。
宗教に使うお金への偏見
それから、一般に宗教を信じない人からすると、目に見えないものに対して捧げるお金はまったく無意味のように映っていると思います。車や家や服飾、貴金属などに使うのであれば、目にみえる形ある価値と満足を得られるため、納得がいくのでしょうけどね。
俗にいう、神様になぜお金が必要なのだ、という考えを持つ人も多いと思います。まず、最初に書いたように最低限度、教団を維持するお金は必要でしょう。神社仏閣であれば、建物や神域を維持するのにも、かなりのお金がかかります。
そこから先のことに関しては、教団が何に使うのかはその宗教団体の考え方や目的によって違うと思います。土地や建物をやたら購入し建造するところもありますが、ワールドメイトに関していうならば、そこは最低限度だと言えます。
また、寄付を求めることに関しては、ひたすら教団の規模を大きくするために、たくさんの寄付を求めているように見えるのであれば、あるいは布教活動を進めているのであれば、教団内部の信者はともかく、一般的に見ると誰しも疑問を抱くと思います。
ワールドメイトからは、不当な寄附を求められたこともなく、無理に布教を強いられたこともありませんので、いずれにも当てはまりませんが、世間的には、その部分が、宗教団体に対する疑問の最も大きな部分の一つだと思っています。
なので僕も宗教団体には、ワールドメイトに出会うまでは全く興味ありませんでした。近寄る気も起きませんでした。では、なぜ今はワールドメイトの信者を続けているのかと聞かれると、神仏に関しては関心があり、ここは、本物の神様のことを教えてくれると、直感的に感じたのが始まりです。
そこについては、別の機会に書こうと思いますが、そもそもワールドメイトをはじめ、宗教団体が金儲けのために宗教をやっているとは思っていません。ごく一部の教団が、多額の金銭を強要するような行為をするため、もともと宗教に対する理解がない人たちからすると、そう思えるのかもしれませんが。ワールドメイトをはじめ、大半の宗教は法外な金銭の寄付を要求したり、強要することなどしないと思います。
それから、今日のお題にも関係するワールドメイトのお金の使い方に関していうならば、僕自身は疑問を持ったことがありません。宗教団体としては異例のことですが、寄付金の使途に関する報告も、会員に対してかなり透明にされています。それを知る限りにおいては、ワールドメイトの健全な目的のために、有効に使われていると信じることに、なんの疑いも起きません。
それで、神さまに奉納した金銭に関しては、実際は教団に収めるわけですが、僕にとっては形ある価値あるものに使う以上の意味を持っています。自分自身の楽しみや、形ある幸せのために使うお金もとても大事なことです。ですが、1人ではできないような、もっと大きな宗教的理想や崇高な目的のために使われるためのお金は、それ以上の喜びになることがあるわけです。
そのような考えに至ると、自分自身が稼いだお金を神様のためにと思って捧げることに対し、とやかく言われる筋合いはないわけです。余計なお世話に思えてしまいますね。特にワールドメイトの場合は、どうしても使いたくなければ、会費以外は使わなくても済みますので。
僕自身は、現在の日本の現状から言って、宗教に関して無知な人ほど宗教に対して偏見を持ってしまいやすい状況にあることは理解しています。だからというわけではありませんが、神仏や宗教を信じないという自由も尊重しているつもりです。
信教の自由は尊重すべきものと考えるからです。それだけに、信仰を持つことや、特に新興宗教を信じることに対して過度に偏見を持ち、差別的な発言をする人たちのことは、無知ゆえに仕方がないとは理解しますが、多少残念だなと思ってはいます。
巷で問題になっている宗教の場合
ただし、いくら自分で稼いだお金と言っても、家族ができ、子供ができると、家庭における責任がありますから、当然、どこまでも自由にして良いとは思いません。
今、巷で問題となっている宗教の場合は、一つは、家庭や生活を放棄したように思えるほど無理をしすぎた人が問題になっているのでしょう。それが教団によるマインドコントロールの結果なのか、それとも本人の自由意思なのかというと、少なくともマインドコントロールなるものは、僕は不可能ではないかと思っています。
一時的にまともな判断ができなくなることは、誰にでも起きる可能性があるとは思いますが。その上で、その宗教のやり方が自分に合わない、あるいはおかしいと感じるのであれば、その時点で立ち止まるか、あるいは無理しない形でやる方法があるかを考えて、どうするかを選べば良いと思います。
もしやめたいのに教団側が退会させないとか、そのために過度な脅かしめいたことを言うのであれば、そんなものは気にする必要ありません。本物の神様が脅かしたり祟ったり、続けることを強制するわけがありませんので。かえって堂々とやめるべきだと考えます。ただし退会するなら教団から頂いたものは念の為、丁重にお返しするのが良いかと思います。
宗教とは関係なく、別な分野において自分の夢や目的を叶えるため、家庭や生活を犠牲にする人もいますけどね。多くは成功しませんが、それなりの覚悟を持っている場合は、本人の意思を変えることはなかなか難しいでしょうけど。
ただ、その場合に使うお金については、そこまでの批判はされませんが、これがもし宗教に使うとなると、それほど大金ではなくても、気でも狂ったかのように言う人もいるので、そこは偏見や差別的なものを感じる残念なところですね。
今回は、個人的な体験をもとにしつつ、普段から思っていたことを少し書きました。
週刊誌「FLASH」へのワールドメイトの回答
ワールドメイトの見解としては、週刊誌「FLASH」の取材に応じた深見東州先生による回答が、一つの参考になるかと思いますので、最後に引用しておきたいと思います。
まず、「宗教」と言っても、色々な種類があります。旧統一教会は、「キリスト教系」の宗教法人です。
キリスト教は、基本的に現実の幸せより、死後の幸せを大事にする教えです。換言すれば、「現実に価値を置かず、罪を許されてあの世で天国に行くことを大事にする宗教」です。だから、旧統一教会の信者らは、進んで神に金銭を捧げようとします。そうある事が尊ばれる宗旨なのです。これは旧統一教会に限らず、キリスト教、とりわけファンダメンタリズム(原理主義)に、現れがちな傾向と言えます。
ちなみに、仏教も、似たような価値観を持っています。
仏教には、「三法印」という3つの要諦があります。「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の3つです。
「諸行無常」とは、世の中は常に移り変わるということ。「諸法無我」とは、全てのものには実体がないということ。つまり、家も社会も国も、形ある物は必ず崩れていくということです。だから、この世のものに執着せず、永遠に変わらないニルヴァーナ(涅槃)を目指す、という教えが基本です。
仏教を背景とするオウム真理教が、破壊的行動を起こしたのも、あの世の涅槃を最上とし、現実界に価値を置かない思想に基づくのでしょう。こうした、「この世に価値を置かず、あの世で幸せになる」という考え方の宗教は、時として、非常に反社会的で、過激な行動を起こす事があります。しかし、それも憲法で保証された、信教の自由があるので、メディアが宗教性そのものは批判できません。消費者問題や、法律の違法性としては、批判できます
これらに対して、ワールドメイトの基本は神道です。神道の教えは、
「神の恵みや祝福は、生業が栄え、家が栄え、コミュニティが栄えることに現れる」
というものです。つまり、現実の仕事や家庭や社会が、幸せで繁栄するところに、神の恵みが現れるというのが、神道の考え方です。だから、神道とは基本的に、反社会的になりようがない宗教なのです。だからこそ、ワールドメイトは社会性を大切にします。社会性とは、仕事と家庭と社会の幸せと繁栄であり、遵法の精神です。
そして、社会性を考えるからこそ、ワールドメイトでは、旧統一教会のように、遺産相続や保険で入ったお金を、全て寄付させるような事はしません。ワールドメイトは、自由と自主性を重んじますが、「自分のお金だから、寄付しようとどうしようと勝手じゃないか」と思うでしょうが、それは浅慮といえます。例えば、遺産相続で言えば、家族や親戚、兄弟や子供がおり、遺産の使い道を常に注目してるはずです。そのお金を、自分達で使いたい人もいるでしょう。それを教団に寄付すれば、家庭不和や、兄弟親戚とのトラブルを起こす元になります。
だから、家庭や親戚の幸せや社会性を考えれば、こうした遺産相続や保険金のお金は、「ご家族に遺すか、どうしても寄付したいなら、宗教ではなく、ユネスコや赤十字にされてはどうですか」と、いつも勧めています。それで、いまだかつて、そういう寄付を受け取った事はありません。
また同じく、旧統一教会のように、無制限に高額な献金を受け付けることも、社会性を損うので致しません。原則として5万円までとか、10万円まで等、寄付の上限の基準を定め、無理して家庭にひずみが来ないよう、社会性を大事にしてるのです。新しい拠点を作るときは、寄付も受け付けますが、その時も上限を決め、沢山もらい過ぎないようにしています。
話は横道に逸れましたが、このように、旧統一教会は「あの世の幸せに価値を置く」という、キリスト教系(しかも原理主義)の価値観を継承しています。「ものみの塔」や「モルモン教」も同じです。だから、そのこと自体は、キリスト教系としてはそれほど特異ではありません。宗教法人として認証されたということは、それなりの宗教性があるのだろうと、まずは一般論としてそう考える次第です。
また、統一教会の信者らの信仰や献金について、ひとくくりに「洗脳」「マインドコントロール」といった、レッテルを貼ることには異論があります。「洗脳」や「マインドコントロール」の定義を見れば、10億人のキリスト教信者、8億人のイスラム教徒、また世界中の仏教徒は、全て洗脳によって入信し、洗脳によって信仰を続け、マインドコントロールで、献金や活動をしてる事になります。共産党のオルグや洗脳と同じように、宗教に洗脳やマインドコントロールの概念を持ち込む事は、そもそも根本的に問題があるのです。
これらの言葉を使うジャーナリストや、論者の結論は、「そもそも荒唐無稽な宗教というものを信ずる者は変な人だ。無神論が正しく、リベラルが本当で、世界中が共産党になるのが正しい。マルクスが言ったように、『宗教はアヘン』なのだ」という結論になります。ところが、新しい学問である「宗教学」では違います。日本の宗教学の泰斗だった東大の岸本英夫博士は、「宗教や信仰の神秘な部分は、人々の神秘な部分で受け取り、理解するしかない。それを科学的な視点や、社会的な視点で批判するべきではない」と結論付けています。そこの部分は、そっとしておけという事です。こういう、宗教学の立場や、理解や知識のない、ジャーナリスト、学者、タレントがテレビで堂々と宗教を論じ、批判してる姿に、憤りを禁じ得ません。日本国民は、ますます宗教に偏見をもち、信仰を持つ人々の肩身を狭くします。まさに、これが「信教の自由」を迫害してる事になります。
英国のある女性の宗教学者が、統一教会における洗脳の実態を、詳しく調べた事があります。その結論は、洗脳やマインドコントロールは、実際には実在しない事でした。信者は、全て自分の意思で入信し、自分の意思で辞めているからです。実際に、日本に最大56万人いた信者は、50万人がやめて今は6万人ぐらいだそうです。彼女は、その後「統一教会」との癒着で批判され、その説は評価されていません。しかし、そもそも宗教に洗脳とか、マインドコントロールという言葉や、概念を持ち込むことに問題があるのです。ネットで検索すれば、学者によって、肯定論や懐疑論が入り混じる事が分かります。従って、これらを「教団による洗脳の結果」と位置づけるのは、宗教学的にも、社会学的にも、世界中の宗教リーダーの目から見ても、問題があるのです。
いずれにせよ、「行きすぎた献金」が、社会生活を破壊したり、家庭を破壊したりすることは、あってはならない事だと考えます。前述の通り、「社会生活や家庭や生業が栄えることを、神道の神は望まれる」と考える、神道系のワールドメイトだからこそ、一層そう思えるのです。しかし、社会や仕事や家庭に価値を置かない、キリスト教や仏教系の宗教団体なら、「行きすぎた献金」や、「社会生活の破壊」、「家庭の破壊」は、神道系の宗教団体ほど、問題にはしないはずです。何に価値を置く宗教なのかは、全くの信教の自由だからです。そこを踏み込んで、メディアの価値観で批判するのは、著しく教団や信者の信教の自由を侵害してると言えます。メディアが批判できるのは、法治国家なので、違法性だけだと言えましょう。
こうした宗教ごとの理念の「違い」や、憲法で保証された信教の自由、表現・結社の自由について、きちんと分かっている方は少数です。多くの人にとって、宗教は一括りに見られがちです。それは、「偏見は無知より生ず」(Prejudice is the child of ignorance.)の諺(ことわざ)通り、宗教に関して、人々もメディアも、あまりにも無知なるが故に生まれる、偏見だと言えます。我々は、常にメディアに真正面から向かい、様々な問いに答え、こうした誤解を受けないよう、努力する次第です。
もう1つ言える事があります。
安倍元首相が凶弾に倒れたことは、本当に衝撃であり、胸が痛む悲劇でした。ただ、その原因を、旧統一教会への恨みとか、狙撃犯の母親が異常に信仰熱心だった等に求め、あたかも「安倍元首相が殺されたのは、旧統一教会との関係や、旧統一教会に問題があった」とする論調が、昨今行き過ぎてるのではないか、と考えます。
なぜなら、誰がどう考えても、安倍元首相を殺した犯人が、100%悪いに決まってます。旧統一教会や、オウム真理教、また創価学会に深い恨みを持つ人は沢山いるでしょう。しかし、山上容疑者のように、教団と関係ない政治家を、暗殺した者は1人もいません。この事件は、突出して山上容疑者に問題があることは、自明の理です。
すなわち本件について言えば、罪を償うべきは、当然に山上容疑者であり、そこに異論の余地はありません。にも関わらず、あたかも、安倍元首相を殺した容疑者を擁護するかのように、(それが例え、かねて評判の悪かった旧統一教会だとは言え、)宗教叩きや、それにつながりのある政治家叩きに血道を上げる報道は、問題のすり替えに繋がりかねないと危惧します。すなわち、これなら、殺人犯の山上容疑者の思惑通りに、メディアが踊らされてる事になるからです。
断っておきますが、旧統一教会に問題が無いと言うつもりは、毛頭ありません。しかし、それらは、30年前にさんざん議論され、批判された事です。それから、旧統一教会なりに改善し、努力してる事です。我々から見れば全く足りませんが、教理の原則から言えば、その改善にも限度はあるでしょう。それでも、それが良いと信じ、幸せに生きてる信者も多いのです。それが嫌だ、だめだと思う信者は、とっくに全員やめています。実際、前述の如く、56万人いたと言われる信者は、今は6万人しかいないのです。やはり、淘汰されてるのです。だから、信教の自由があるので、あくまで法に基づき、是は是、非は非として正されるべきです。宗教性にまで立ち入る批判は、信教の自由の侵害になるからです。そこから、宗教全般が問題視されたり、関係のない宗教まで、一括りに白い目で見られる事は、あってはならない事です。まともに、普通に、それぞれの信仰を大切にして生きてる、多くの信仰者の「信教の自由」が侵害され、汚され、蔑(さげす)まれる事になりかねないです。
そのことが、一番の問題だと考えます
以下のサイトから引用しました。
http://hodotokushu.net/kaiin/kiji20220926l.html
また、光文社のFLASHからの取材の別な質問に対するワールドメイトの回答は、以下の記事に分けて掲載していますので、そちらも参考にしてください。