深見東州先生の音楽に関するプロフィールを、かなり私情も混じえながらストーリー風に紹介したいと思います。主に、「ああ!、と驚くアートな随筆」や、オフィシャルサイトに載っているもの、私が何かの折に耳にしたことなどからまとめています。
目次
深見東州氏の音楽のルーツは?
今でこそ、クラシックからジャズ、ロックまで、日本の歌でしたら日本歌曲から、童謡、アニメソング、演歌、そしてシンガーソングライターとして、幅広く歌いこなす実力に、多くの人たちが驚かれていると思います。しかし、深見東州先生が音楽を学び始めたのは35歳を過ぎてからですので、かなりの晩学になります。
そのルーツを見ると、まず子供時代はアニメに夢中で、主題歌をよく歌っていたそうです。中学生になると、クラシック好きの友人から無理やりベートーヴェンを聞かされているうちに、少しクラシックの良さがわかってきたそうですが、高校時代はクラシックから離れ、通学の時に歌謡曲をやたら大きな声で歌っていたそうです。
そして浪人時代から、クラシックの名曲を聴く日々が続いたそうで、そういうことから音楽のルーツは、アニメソングとクラシックだねと言われています。
25歳からは、師である植松愛子先生の好きなムード歌謡や演歌などを歌っていたそうです。好きな歌や、当時流行ったフォークソングなどは歌わせてもらえなかったようです(笑い)
ということで、好きではないジャンルであっても歌っていたことから、現在のようなボーダレスに、良いものはジャンルに関係なく歌う歌手としての基礎が、その頃に出来上がっていったと思われます。
35歳から音楽を習い始める
そして35歳からピアノを、バイオリンを36歳から、作曲は38歳、声楽を40歳のときにゼロから始められます。
35歳の頃に初のCDをリリースしたそうですが、30代の終わりから40代にかけて作詞作曲しCDになったポップス系の曲を聞くと、その声の良さにまず驚きます。そしてキャッチーな曲、とても美しい旋律のバラード曲など、作詞作曲にも極めて秀でたものを発揮し、現在とは歌い方がまるで違いますが、シンガーソングライターとしての類い稀な才能がすでに開花しています。
そして、声楽を40歳から始め、さらに44歳からは本格的に音楽理論を学びます。音楽理論は糀場富美子氏に、声楽は栗林義信氏に師事されています。また、指揮者としても43歳(1994年)ごろデビューされますが、この時はウィーン・フィルのコンサートマスターなど数人のトップ演奏者を招いてのデビューになりました。指揮法は永瀬清正氏に師事されました。
また、この頃は美しい旋律のピアノ曲を数多く作曲され、1991年には、デビッド・ヘルフゴット氏を招聘しピアノコンサートを開催しました。その6年後、1997年度アカデミー賞最優秀主演男優賞受賞映画「シャイン」のモデルになったのが、このデビッド・ヘルフゴット氏でした。
その時のライブCDもリリースされていますが、その後、全曲深見東州先生作曲のピアノ曲を、デビッド・ヘルフゴット氏が弾いたCDもリリースされています。ヘルフゴット氏が、なんて美しい曲なんだと涙を流して演奏していたと聞きました。
また、壮大なスケールの交響曲、室内楽曲を2つ書かれ、1990年に伊勢神宮と箱根神社で奉納演奏が行われました。こちらも何度聴いても感動する楽曲です。
また、他にも弦楽四重奏曲、オラトリオ、オペラなどの大作を次々と作曲し、90年代には何度も演奏会が開かれてきました。
ロイヤル・アルバートホールとカーネギーホールでチャリティコンサートを開催
そして声楽の歌も、その演奏会とともに公の場で披露されます。僕は、海外を除けば、国内のコンサートはそこそこ観ている方かと思いますが、初めて声楽で歌われたのを聴いたのは1992年の鹿島野外コンサートだったように思います。今のようなベルカント唱法ではありませんが、声楽の歌に、すごく感動したことを思い出します。その時のライブ演奏が「MAKKOU」というCDに収録されています。
そして90年代は、チャリティを含め、国内外で様々なコンサートを開催してきました。1994年にはベルリン・フィルとの共演もしました。また、同年11月にはロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでチャリティコンサートを開催し、深見東州先生は指揮者兼、アーティスト・ディレクターとして出演し、大成功を収めました。ビデオで観ましたが、英国ミュージカル・スターのエレイン・ペイジなど、とても豪華なタレントが多数出演した楽しいコンサートでした。
さらに1996年には、ニューヨークのカーネギーホールで、やはりチャリティコンサートを開催します。これもビデオで観ましたが、大変ハイレベルのスター歌手やタレントが出演していました。深見東州先生は指揮者として、またシンガーとして「魅惑の宵」を歌い上げ、ニューヨーカーたちから絶大なる拍手喝采を浴びていました。現地のマスコミの評価も高かったそうです。
また、主に1997年ごろからですが、約10年間にわたり、様々な器楽曲(インストルメンタル)を多数作曲されています。そのどれもが耳に残る、とても粒ぞろいの曲ばかりなのにも驚きます。それらの曲は「天河の旋律」シリーズなど、20数枚のCD に収められています。
音大受験〜オーストラリアでの出会い
そして1997年の3月には、オペラ歌手として初の舞台となる「俊寛」に出演します。そして4月からは武蔵野音楽大学特修科(マスタークラス)声楽専攻に入学。もちろん、周りの学生は若い女性ばかりで、また、大変多忙の中で音大生として授業を受けられるわけですから、この時も本当に驚きました。
すでにプライベートレッスンで、声楽のことは頭に入っていたそうですが、音大に行かなければ音楽理論の基礎や、歌やオペラの高い領域にいけないと感じたから決断したそうです。 もちろん、武蔵野音大の特修科ですから、受験するにも音大卒業か、同じ程度の能力がなければ受け付けてもらうことすらできません。
しかし音楽理論は44歳から本格的に学ばれていて、いくつかのコンクールに出るなど実技にも磨きをかけられていたので、専門家の推薦状をもらい受験することができ、46歳にして音大特修科の狭き門をくぐり抜けることができたのでした。
そうして武蔵野音楽大学特修科(マスタークラス)声楽専攻での履修を修了した後は、今度はさらなる高みを求めて、オーストラリアにおける2大音楽教育の殿堂と言われる西オーストラリア州立エディスコーエン大学芸術学部大学院(Western Australian Academy of Performing Arts)に48歳で入学。2002年12月、51歳で卒業し、修士号を取得します。
この時に世界5大バリトンと呼ばれ、ドミンゴが最も好きなバリトン、カレーラスが最も信頼するバリトンと言われたグレゴリー・ユーリシッチ氏と出会い、オペラパフォーマンスのすべてと、オペラ、オペラッタ、ミュージカルの歌い方の違いや、本格的なベルカント唱法を学んだそうです。そして、その後もグレゴリー・ユーリシッチ氏の指導のもと、実戦で、声楽に磨きをかけていかれます。
そのころ出演したオペラやコンサーには、日本語オペラ「聖徳太子」や中国オペラ「楊貴妃」、オペラ「魔笛」、オペラブッファ「七福神来天」などがあります。また、バチカンでのローマ法王謁見コンサート、「ニューイヤーコンサート」(ロンドン)「サマーコンサート」(ロンドン)、「前衛芸術コンサート」(パース)、「中外著名音楽家演奏会」(北京)「万里の長城コンサート」(中国)「つるとコアラのコンサート」(東京)他多数、など日本やイギリス、オーストラリア、中国などで、年数回のコンサートに出演されていました。
別な機会に詳しく書きますが、特にこの時期は、 舞台芸術や絵画などにも同時並行で取り組まれてきました。むしろ、そちらの活動のほうが多いくらいです。もともとバレエ舞台には1992年ごろから出演されていましたが、能楽は1996年から舞台に出演され始めます。京劇も1999年から舞台に立たれ、絵画や書道の個展も1999年から国内外で増えていきます。
舞台も個展も、日本はもちろん、英国、オーストラリア、中国、アメリカ、エジプトなどでも多くが開催されてきました。
他にも大掛かりで独創的な華展を2001年に、自ら製作した陶器を用いてのお茶会を2002年に、自らデザインした服飾によるファッションショーも2001年に開催されています。コンサートなどの音楽活動も含めて、このような異分野にわたる芸術活動が混然として、国内外で月に2、3回のぺースで行われるという超人的なスケジュールがずっと続きました。
もちろん生業である会社経営などのビジネス活動、そしてワールドメイトにおける宗教活動、さらに世界各地での様々なチャリティ・福祉活動は、また別途に並行して行われているわけですから、深見東州先生のバイタリティあふれる活動の実態を詳しく知れば知るほど、人間とは思えないような、そんな驚きを禁じ得なくなります。
オペラの難曲にチャレンジ、若い声楽家への支援
話を音楽活動に戻しますが、西オーストラリアの大学を卒業する2003年から、ヴェルディやプッチーニ、モーツァルトの難曲と言われるフルオペラの主役や準主役にチャレンジされるようになります。また、グレゴリー・ユーリシッチ氏からも、実戦の中でさらに具体的なコーチングを受け、その結果短期間で和製ベルカントから本物のベルカント唱法に切り替わることができたそうです。
ユーリシッチ氏からは結局約10年間ほど学ばれたそうですが、40 才で声楽を学び始め、ユーリシッチ氏と出会う前に、国内および世界中の英語圏の、計30人以上の先生についてテノールやバリトンの声楽を学ばれていたそうです。ジュリアード音楽院でも学長の紹介で有名な二人の先生からプライベートレッスンを受け、イギリスのロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージックでも3人の先生に習い、素晴らしい体験をしたそうです。
しかしその中で、やはりグレゴリー・ユーリシッチ氏が一番の先生だったようです。ユーリシッチ氏は50歳で引退するまで、世界の5大バリトンとして、圧倒的な声楽とパフォーマンスの実力を備え、教え方もうまく、ピアノやチェロなど、いくつかの楽器も演奏できたそうです。
深見東州先生が55歳の時、ユーリシッチ氏は、「いまの深見さんは、歌も演技も、ヨーロッパに行っても、スカラ座やコベントガーデンの次のランクの劇場で主役をやれるレベルになった。あとは同じ演目を何度もやって、体に入れるようにすれば、その上のランクでも通用するよ。あなたは、私が教えた生徒の中でも驚異的な生徒。どんな難しいテクニックを教えても、1回でその場でやれてしまう。そして今度会った時には、それが体に入って自分のものにしているんだから、どういう頭脳をしているのか不思議でしょうがないよ」と、同じ年でありながら、底知れぬ吸収力を持つ深見東州先生に驚かれていたとのことです。またその頃、アジアで本当のベルカントで歌えるのは深見東州さんしか知らないと言われていたと聞きました。
ベルカント唱法に関しては、国内の共演したトップソリストたちの何人かは、イタリア留学の経験もないのに、どうしてベルカントの王道を行く発声で完璧に歌えるのかに驚いていたそうです。多くのソリストたちも口にはしませんが、同じように思ってますよと言われたそうです。
そのユーリシッチ氏とは、世界芸術文化振興協会を通じ、共同でオーストラリアン・オペラ・スタジオをパースに設立し、世界で通用する若き声楽家を育成するため、ユニークで実戦的な教育を行ってきました。その卒業生たちは、オセアニ ア地域の8大声楽コンクールの内の6大会で優勝し、それぞれ世界中のオペラハウスで活躍 しているそうです。ちなみに、このスタジオのペイトロンには、ドミンゴが就任しています。
また、ジュリアード音楽院では、声楽科のオペラ卒業公演を1999年から10年間支援し、その後は日本人の才能ある若き声楽家にジュリアード音楽院への門戸を開くため、世界芸術文化振興協会とジュリアード音楽院の共同主催による、ジュリアード音楽院声楽オーディションを6年間にわたり開催してきました。
本格的なオペラの舞台だけでなく、ポップス系のコンサートを同時並行で開催
世界芸術文化振興協会主催のオペラは、2002年の「オペラ聖徳太子~和を以て貴しとなす~」に始まり、「椿姫」「ラ・ボエーム」「フィガロの結婚」「リゴレット」「ファルスタッフ」「ドン・ジョバンニ」「ナブッコ」が、和のテイストを取り入れた新しい演出によって、2010年まで毎年開催されてきました。その多くでタイトルロールを演じられ好評を博しています。
そして2007年5月に、それまでのコンサートや舞台から選りすぐった曲を9本のCDにして、「深見東州 ヒストリカルライブステージ」としてリリースしました。アリアから世界の民謡や歌曲、日本の歌曲や唱歌が収められています。声楽の好きな人には、ぜひ聞いてもらいたいCDです。
そのCD リリース後からは、欧米のポップスのスタンダードナンバーや、Jポップや演歌、歌謡曲、ムード歌謡の名曲を、コンサートで多く歌われるようになります。また、そこからのライブ音源により、複数のCDをリリースされます。
そして2008年からはシンガーソングライターとして、オリジナル曲を再び多く発表されるようになります。代表的なアルバム「雨の中のバラード」の中の「ジダンダ」という曲は、小林旭さんがカバーし、有線放送で1位になりました。
ユーリシッチ氏の言葉を借りると、「深見東州氏はヴェルディ、プーチーニ、モーツァルトのオペラを全幕主役でフルに歌い、演技と美声で魅了するオペラ歌手である。世界レベルのベルカント唱法を短期間で完全にマスターし、高音域から低音域までムラなく自然に歌えるのは驚きである。しかしそれだけではなく、そこからオペラやベルカントの臭みを抜いて、スタンダードジャズや、日本のポップスや演歌まで、ハートで素晴らしく歌えるのはもっと驚きである。こういう才能がある人は、アジアでは見たことがない。世界でも類を見ない才能であり、オペラ歌手としても世界レベルだと言える。」ということになるかと思います。
日本での深見東州先生の声楽の師である栗林義信氏も、「深見東州さんの作詞作曲した曲は心温まる、心なごむ曲ばかりです。そして、ぐっと胸に響く歌声です。大変素晴らしい。ポップスをこんなに上手に歌うオペラ歌手を初めて見ました。」と言われていました。
小林旭さんも賞賛されてましたが、湯川れい子さんも、はじめは本格的にバリトンを磨いて来たその声量で、これでもかと声を張って聞かせるポップスかと思って身構えていたそうですが、実際に聞いてみると、実に素直で、丁寧で、その楽曲に対する心からの敬意と愛情が感じられる、優しく暖かい歌声であることにびっくりさせられます、と書かれていました。
ポップス、ロック、クラシックの大物歌手とコンサートで共演
そして、ふたたび2012年には、オペラ・オーストラリアとの共催で「ドン・パスクワーレ」が東京で上演され、タイトルロールを演じ大絶賛になりました。本当に楽しいオペラでした。
そして、同年、マイケル・ボルトンとの出会いがあり、シンガポールで初めて共演し、3曲歌われます。
翌年2013年になると、「深見東州と世界の友人コンサートツアー」と題し、名古屋ではサバイバーのジミ・ジェイミソンと、武道館ではマイケル・ボルトンとピーター・セテラとのコラボでコンサートが開催されます。さらに2014年には、「進撃の阪神巨人ロックコンサート」と題し、レインボウのジョー・リン・ターナー、スターシップのミッキー・トーマス、ジャーニーのスティーブ・オウジェリー、トトのボビー・キンボールの4人とともに共演し、大評判となります。
2015年には、ふたたびマイケルボルトンと横浜で共演し、2016年には、デイヴィッド・フォスター、ベイビー・フェイス、ピーター・セテラ、メラニーC、キャサリン・ジェンキンスと共演する、夢のようなコンサートが開催されました。
また、2014年には小林旭さんと共演で演歌コンサートを開催し、2014年からは毎年数回、単独でのジャズコンサートやロックコンサート、フォークコンサート、グループサウンズコンサート、日本歌曲のコンサート、オリジナルソングのみのコンサート、ジャンルなんでもありのコンサートを武道館、他で開催しています。
クラシックも、「東京国際コンサート」と題し、2013年から毎年、キリ・テ・カナワ、ルネ・フレミング、ホセ・カレーラス、プラシド・ドミンゴ、アンジェラ・ゲオルギューらを招いて共演をしてきました。どれも大変素晴らしいコンサートだったという評判です。
ところで2010年代になると、東京大薪能の開催に加え、並行してオリジナルの劇団公演や、ゴルフトーナメントの開催、世界オピニオンリーダーズサミットの開催、著名人を招いてのイベントなどが増え、異分野イベントとの同時開催、並行しての開催が続くという、一層ハードな日々となっていきました。
最後に、2018年までにリリースされた楽曲ですが、器楽曲は350曲を超え、ポップス系のオリジナル曲は60曲を超え、他、カバー曲は200曲近くになると思います。
音楽業界のルートに乗っかる売り込みや宣伝などを一切してないため、一般的には無名の曲かもしれませんが、世の中で大ヒットした曲や、美しい旋律で有名なクラシック曲などと、まったく引けを取らないような名曲が数多く含まれています。