幼い頃、人は死ぬとどうなるんだろうかと、真剣に考えていた時期がありました。そもそも死ぬってどういうことかも、よくわかっていなかったと思いますが。
そして中学生になると、神様はいると思うけども、どこにいて、どんな姿なんだろうか、そんなことを考えるようになりました。
キリスト教では絶対的な神がいて、さらに唯一の神らしいこと。イスラム教やユダヤ教の神も、名前は違うけども、どうやら同じ神のことらしいことを知ると、どういうことなのだろうと疑問を持ち?不思議に感じていました。
そして仏教には、観音様や不動明王など、いろんな仏様がいるけど、神様と何が違うのかな?そもそも仏教には多くの宗派があるけど、真実が一つとするなら、なぜ多くの宗派がいるのだろうとか、そんなことを思ってましたね。
さらに日本は八百万の神なので、これまたたくさんの神々がいらっしゃる。宗派をまたいだ七福神という神々も信仰されている。
同様に世界各地の神話になると、ゼウスやトール、盤古という天地創造の神や最高神らをはじめ、多くの神々が登場しますが、知れば知るほど何が真実で、何を信じればいいのかわからなくなっていましたね。
大宇宙や大自然が、偶然にできたものとはどうしても思えず、それを創った超越した存在の神様がいると思うのが自然のように思えました。そんなことに関心があるものの、考えてもわからず無駄のような気がしてきて、いつしか真剣には考えなくなりましたが。
そんな感じなので、興味があるいろんな本を読んではみるものの、ピンとくる決定打がなかったせいか、何かの宗教を信仰しようという気には全くなれずにいました。そんな僕が深見東州先生の著作に巡り会った後、それほど間を空けずにワールドメイトに入会したのは、今、考えるとかなり思い切ったことだったと思います。
入信の決め手になったのは、ここはなにが真実なのかを教えてくれるそうだと、直感したからだろうと思います。
ところが、深見東州先生の著作「大天運」も読みましたが、そこには僕のような疑問を持った人のことが書かれていて、それは次のようなくだりでした。
「読者の皆様も、一度はこういう疑問に遭遇されたことがあるのではないだろうか。真髄とは何か。正しい道とはどれか。真実の神とは何か。宗教遍歴を重ね、書物を読めば読むほどわらかなくなってくるのではないだろうか。どの宗教、どの本を見ても、皆一様に自分のところが最高であるかの如くいい、また、書いている。だから、純粋に、真剣に求めれば求めるほど、わからなくなってくるのではないかと思う。」
まさに当時の、僕自身のことを言われている気がしました。ただし僕には宗教遍歴はありませんが、本を読み、中途半端に知識を齧っていました。
続いて、そんな疑問に対する答えとして、「大天運」には以下のように書かれています。
「多くの人々が真髄を求めてさまよい歩くのには理由がある。それは真髄とはすなわち、形ある教理や教えの中にあると思っているからである。ここに気がつかない限り、永遠に魂はさまよい歩くことになるだろう。たとえ私の主宰するワールドメイトに入会されたとしても、それは同じことである。
では、その迷える魂の旅路に終止符を打つにはどうすべきか。それには何よりもまず、『真髄とは無形のものであり、体得するものであり、知性ではないところで実感するものである』ということを悟る必要がある。」と書かれていました。
(ちなみに当時はワールドメイトではなくコスモメイトという名称で、まだ、宗教法人格を取得する前でした。)
「大天運」では、僕らが陥りやすい過ちを明確に指摘し、神様を知りたいとか、真実を知りたいと思って、いくら書物や経典を読んだとしても、それで真実や真髄がわかることは無い理由が書かれていたわけです。
宗教団体や師匠や先生、そして書物などは、無形の真髄を自分自身が体得し、実感するためのあくまで媒介にしかすぎないと書かれています。そこに答えを求めてもわからなくなるだけなので、どこからでも吸収し、何からでも体得できる自分を確立することが大切だと書かれていました。
もちろん、媒介だからといって軽んじて良いと言うことではありませんので、そこは誤解なきように。禅宗の本では、師匠に厳しく導かれて、弟子が見性する場面などが書かれていますが、媒介といえども、尊重するべき存在であることは言うまでもありません。
真髄や神様の真実を知性で理解しようとすると、わからなくなるということなのでしょう。よく、神様のことを否定する人たちは、やたら科学的な証明ができないことや、知性で理解できないことを理由に否定してきますよね。それだから、真髄や真実を会得することが不可能になっていることに気がつくことも無いと思います。
よく論破王みたいな人が話題になりますが、それも結局は知性という枠の中で論破しているだけのことですからね。ただ現実世界では、その知性が非常に重要になりますが、霊界や神界という知性で理解できない世界も存在しているため、神や霊界のことなどを、知性で論破したような気になったとしても、全く意味がないわけですね。
かくゆう僕も、本を読むうちに、きっとどこかに真理や真実が書かれているに違いないと、そう期待して読み漁っていたのだろうと思います。既存の宗教の教えに関しては、素晴らしい良い教えだなと思うことはありますが、根本的な疑問の答えに思えるほどの、ピンとくるものには出会えなかったのは、知性で理解できるものだと勘違いしていた当然の結果だったわけです。
深見東州先生が言われるには、本当の神様は無限絶対無始無終なので、人間が知性で掌握したり、体得できるものではないということです。ただし、人にわかりやすくするために、無限極から有限の仮の姿となってお出ましになるそうです。そのような存在を、僕らは神様とか神霊と呼んでいるわけですが、それは顕現神になるとのことです。
どの宗教や神話に出てくる神様も、この顕現神になるわけですね。顕現神からは、ある程度の真実を知ることもできるし、体得することもできるそうです。ワールドメイトでいうところの神人合一も、この顕現神のことを指しています。
そのように人が感知できる顕現神と、できない絶対神の存在があり、その違いを納得できれば、多くの宗教者や宗教が「自分たちの神様こそが絶対である」というような、そんな傲慢な認識に陥ることも無くなるのでしょうけどね。
絶対神ではなく、顕現神であるという謙虚な姿勢になるならば、宗門宗派における争いや対立が起きることも無くなるのかもしれませんね。