ワールドメイトのホームページを見ると、「ワールドメイトは日本古来からの宗教、神道をベースにした宗教法人です」との説明があります。
日本古来からの、というところが大事で、これは6世紀に仏教が伝来する以前から日本に存在していた民族宗教といえるもので、古神道とも言われていますね。
国家神道とは
ちなみに、明治維新以降に復古神道の思想にもとずき、新たに形成されていった、戦後米国から国家神道と呼ばれたものとは違います。
ざっと振り返ると、神道と仏教は神仏習合の長い歴史がありますが、江戸時代には寺請制度ができ、事実上仏教が国教のようになっていたといえます。明治政府は、それまでの武家社会から、天皇中心の政治に戻しましたが、神仏分離令が公布されると、神道側や一部の民衆の不満がたまっていたのでしょう、それ以前から一部の地域でおこっていたといわれる廃仏毀釈運動が全国に広がってしまいました。
廃仏毀釈運動は明治政府が意図したことではありませんが、薩長主体の明治政府は復古思想にもとずき神道を国教に据え、天皇を中心とした国づくりを考えていました。ただ、長い間続いてきた神仏習合をなくしてしまったことで、仏教勢力からの不満もあり、結果として神道側が単独で独自教化を進めることになります。しかし神道グループの間にも考え方の相違が大きく、うまくいかず、キリスト教を背景にした西洋諸国の批判も重なり、国教化を諦めます。明治憲法は信教の自由を保障しました。
しかし「神道は宗教にあらず」という解釈に変えることで、信教の自由を担保しつつ、神社神道や皇室神道の祭祀などを国民の行事として行うことにしました。事実上の国教化と言われる政策が行われていきます。神社神道とは違う神道系団体に関しては、いくつかを公認して、教派神道として宗教扱いにしました。
ワールドメイトは、その時代には存在しませんが、神道の分類で分けるのであれば、教派神道の流れになるといえます。
その後、明治政府が整備してきた神道政策は、軍国主義の台頭とともに、本来の意図とは違う形で国威発揚に利用されたり、軍国主義に合わせた解釈になってきた一面があり、そのため戦後は、欧米諸国から神道が戦争に至る原因を作ったと誤解されてしまったのでしょう。
日本における宗教の土壌には、現世利益がある
本来の、古来からある神道は、神社で祈祷を受けたことがある人は知っていると思いますが、「生業(なりわい)ゆるぶことなく、家門(いえかど)高く富み栄え」という祝詞もあるように、現実の家やコミニティの繁栄を大切にする宗教といえます。
神社では「商売繁盛」や「無病息災」「災厄消除」「社運隆昌」など、個人の生活や家、会社が栄えるための祈願をもろに掲げています。キリスト教やイスラム教、仏教とはかなり違うところですね。ただ仏教も日本に入ると神道の影響なのか、国内の寺社で現世利益を謳っているところも多く存在しますけどね。
大事なポイントは、神社であれお寺であれ、信仰を通して、現世利益を実感する人が、昔から日本にはとても多かったと思います。そのような土壌がある日本では、信仰を通して実感できるおかげというものが実感できないと、あまり広がらないのかもしれません。
以前、プロテスタントの牧師さんと話しをして、何度か教会に行ったこともありますが、純粋な信仰心や博愛の精神は感じますが、個人の現世利益を求めるような雰囲気は感じませんでした。
中世の頃のキリスト教(ローマカトリック教会)には、お金を儲けることに否定的で、貧困を美徳とする傾向があったようです。しかし宗教改革によってカルヴァン派が台頭すると、仕事に貴賎はなく、天から与えられたものであり、その天職にしたがって勤勉に働くことが良いとされ、さらにそれによって得た財産は神の祝福の証しというカルヴァンの考え方が広がりました。
なので、現世を否定しているとは思えませんが、それでも、神仏のおかげとか、神様の御神徳をいただき、栄えるという、神道的なものとは背景が違うように思います。
この世の価値観よりもあの世に重きをおく世界の宗教
当時のキリスト教(ローマ・カトリック)は、人間の意志や行動によって、天国に行けるか、そうでないかが決まるという感じだったのですが、教会が高額な免罪符を買えば救われるということを始めたため、それは聖書に書かれていないのでおかしいと、ルターなどの宗教改革につながっていきました。
中でもカルヴァンは、人間の意志や行動とは無関係に、魂が救われるか救われないかは、あらかじめすでに決められているという予定説を強調しました。すでに決められているのであれば、努力することが虚しく思えますが、天職(仕事は天から与えられたもの)に励むことで、どこにいくのかはわかるとも言ってます。
カルヴァンの教えを信じる人は、努力して成功することは、神の祝福であり、天国に行けることの証明になると、そんな感じなのでしょう。現実社会で頑張りますが、あくまで、あの世の死後の世界に重きを置いているのがわかりますね。
これは、イスラム教でも同じような傾向がありますね。やはり現世で善行を積んだものは、あの世で天国に行くとされています。その反対は地獄行きですね。だから、現実を大事にして、善行を積むことを心がけていますが、それも死後の世界に重きを置いての行いといえますね。
最近の過激なイスラム教徒の間では、自爆テロを行うことが、世界から問題視されています。それが神の善だと教えられ、死後に素晴らしい天国に行けると信じられているのでしょう。極端な解釈で歪められていますね。
仏教も、いろいろな宗派の教えの違いがあるので一概にはいえませんが、悟りをひらき、苦の原因となる煩悩を捨て去るために、仏道を志す修行者は出家という形をとり、在家の信徒を導く形がとられていました。今の日本でも、出家をしている僧侶はたくさんいると思いますが、親鸞のように在家で修行する僧侶もいました。また信徒のほとんどは在家ですし、明治以降は僧侶も在家の傾向が強くなったようです。
お釈迦様が説かれたと言われる修行の眼目をまとめた八正道を見ると、もしこれをそのまま実践するのであれば、在家であっても、現代に生きる上では、俗世と距離を置かない限りは困難のように思えます。
また、小乗仏教は三法印、大乗仏教には諸法実相印と言われる、仏教の根本的な教理を要約したものがあります。宗派によっても多少解釈は違うようですが、形ある物は変化し続け、やがて崩れていくということで、この世のものごとに執着せずに、永遠に変わらない涅槃を目指すというのが、基本にあるように思います。
ですので、仏教やキリスト教、イスラム教のような世界宗教と言われる宗教は、この世よりも、あの世に重きを置いていたり、脱俗的な面があったりします。それが良い、好きだと思う人も多いと思います。それぞれの宗教の教えや考え方を知れば、良い面がたくさんありますし、共通する普遍的な部分もあります。
最終的には自分で良いと思う、相性の良い宗教を信じれば良いと思っています。
神道は家やコミニティの繁栄を特質とする
そして神道に関しては、現実の繁栄を大事にする宗教と書きました。あの世を大事にしないわけではありません。先祖供養の大切さも説きます。先祖があって今の自分があるわけですからね。先人の行いを敬うのは当然かと思います。
また、先祖たちも子孫のために力を貸してくれます。さらに苦しんでいる先祖を救うことは、その先祖のためだけではなく、現実に生きる自分自身のことにも直結してきます。
とは言っても、やはり現実社会における営みを、より大事にしています。僕もワールドメイトに入会するまでは、神道に対してかなり誤解をしていました。あるいは他の宗教も含めて全く理解していませんでしたね。
現実社会を大事にするのは、別に酒池肉林を楽しむとか、贅沢三昧な生活を送りたいからとか、そんな意図で言っているわけではありません。比較の問題になりますが、贅沢や飲酒や夜遊びが悪いというわけでもありません。
深見東州先生によると、神道には「現実を生き貫く精神や魂の、輝きに価値を見出す」という特質があると言われていました。ワールドメイトでは、御魂が輝くような日々を送ることが良いとされています。ここが、神道の素晴らしいところだと思っています。
ワールドメイトでも、他の宗教と同じく、善行を積むことによって、死後の世界も素晴らしいところにいけるという部分は同じです。因果の法則も、正しく信じています。ただ、あの世の幸せを考えて、そうするのではなく、そんな一面も少しはあっても、やはり現実社会の中で雄々しく御魂を磨くために、御魂が輝く毎日を送るために、そして現実世界で幸せになるためにしていると思います。
それこそが、人がこの世に生まれてきた目的であり、神道が、あるいは神道をベースにするワールドメイトが、現実を大事にしているという、本当の意味につながるものだと思います。