顕在意識を超える知恵はどこから出る?

前回は、真髄は特別なところにあるのではなく、日常の平凡な中にあり、ワールドメイトでは、本当の神の教えは、全て生活の中にあるということに触れました。具体的には、たとえば日常生活の中で家の中や部屋を綺麗にしたり、整理整頓することが、全ての修行の基礎ですよ、とも言われていました。 

最近の禅宗の修行のことは知りませんが、昔の禅の修行の中には、弟子たちに何年間も洗い物をさせたり、ひたすら掃除をさせているものがあります。悟りを開くために入門したのに、ただ毎日毎日、そんなことばかりさせられていたら、なかなかお弟子さんも続かないと思いますけどね。

しかし、そのように洗い物や片付け、掃除をする中で、あれこれと理屈を考えずに、不満もなく、毎日やるべきことをしっかりとやり、ほとんど無意識のうちにやれるようになってくると、次の修行に移っていくようです。おそらく物事を素直に受け止めている状態になりつつあるのでしょう。

前回「柳は緑、花は紅」という村田珠光が見性した時の言葉に触れましたが、柳は緑という、当たり前の、ありのままを述べている言葉の奥に、実は森羅万象の世界を見ているそうです。それと同様に、洗い物や掃除をしている、そのお茶碗の中に、あるいは床の上に、仏さまを見るような境地になっていくのかもしれません。

もしも禅の修行の最中に、自分自身の我とか、あるいは慢心とか、怠りの気持ちが出ると、師匠からビシバシとしごかれるようです。そうやって余計なものもなくなってこそ、そのような境地になっていけるからでしょう。

洗い物や掃除という修行が一段落すると、次の修行は便所掃除です。これも汚いから嫌だなとか、そう思っているうちは修行が進みません。汚いとか綺麗とかも思わなくなって、何も考えずに、自然にトイレ掃除ができるようになると、余計なものがなくなり、本来の自分自身というものが出てこれる境地になっているのかもしれません。

少し横道に逸れますが、慧能禅師の「六祖壇経」には、「本来無一物」という言葉が出てきます。これは禅宗の大事なポイントと言われています。とても難解な言葉ではありますが、美も醜も、元々は同じところから出てきた現れ方の違いに過ぎない、という意味だと思います。凡聖、愛憎、清濁、美醜、善悪という陰陽の次元ではなく、それを超えた、そういうものが出てくる前の次元を表した言葉なのでしょう。

老子には、「天下みな美の美たるを知るも、これ悪のみ。みな善の善たるを知るも、これ不善のみ。故に有と無相生じ、難と易相成り、長と短相形れ、高と下相傾き、音と声相和し、前と後相随う。ここを以って聖人は、無為の事に処り、不言の教えを行なう。・・」という一節がありますが、これも似たような意味だろうと思います。

老子は一層難解でよく意味がわかりませんが、超意訳すると、「皆が美を見て美しいと思うのはよく無いことだ。短い(醜悪)も長い(美)も相対的なものだ。短いもの(醜)があるから長いもの(美)がある。聖人はそのような人為に依らずに、本当の教えを行う。」というような意味かなと思っています。禅宗にも老子にも、様々な名言がありますが、禅宗の方が、まだとっつきやすいかもしれませんね。

老子は奥深い玄玄妙々の境地を説いているようなので、禅宗より劣っているという意味ではありません。

話を戻しますが、本来の自分自身というものは、何のことになるのでしょう。今、ものを書いたり、話したり、考えたりしているこの実態が、自分自身だよと言いたいところですが・・。

お釈迦様も、若い頃に生老病死という苦に直面して出家を思い立ったと言われています。人生とは、真の自己とは何なのか、悟りを求めて修行に出られたのでしょう。ある仙人から「何も思わない、思わないということすら思わない。ということにおいて人は真実の状態になる」と聞き、では、「何も無い、思わないということすら思わないくらい何も無い時に、果たして私という自己がいるのかいないのか、自我というものはあるのか無いのか、どちらでしょう?」と問うたそうです。

その答えは仙人から得られなかったそうですが、6年間の苦行を行なっても悟ることができず、菩提樹の下で瞑想に 入って悟りを開いたと伝えられています。 

その時に、かの有名な「天上天下唯我独尊」という魂から出た言葉を発したわけですね。仙人の言う無の境地のときに自己と言うものが、そこにあるのか無いのかを、求めていた中での悟りだったようです。

それはからだ全体から、心のそこから湧き上がってくる、手の舞い足の踏む所を知らずと言うほどの、圧倒的な歓喜に満たされた絶対的に尊い自己があることを悟った時に、そこからほとばしるように出た言葉だったのでしょう。決して、俺が一番偉いんだと言う傲慢な意味ではありませんよね。深見東州先生によると、この境地が、本当の涅槃寂静の境地でしょうと言うことでした。

そのような何よりも尊い歓喜に包まれ、大きな悟りを得たお釈迦様ですが、これは難下難入ゆえ、貪(とん)と瞋(しん)に支配された人々が、この法(ダルマ)を悟ることは難しいと思っていました。ところが梵天帝釈天が現れて、それでも人に伝えてほしい、穢れの少ない者たちもおり、彼らは教えを聞かなければ堕落してしまうが、教えを聞けば法を悟ることができるでしょうと懇請され、布教をする決心を固めたと伝わっていますね。

禅宗の修行も、目的は同じだと思います。この世で身についた分別の知恵というものを取り除き、乗り越えていくためにあるのでしょう。禅宗ではその分別の知恵を超えた奥に主人公がいて、その主人公を見ることを見性するといいます。

深見東州先生によると、分別の知恵とは顕在意識の知恵であり、頭で考えた観念の世界になるそうです。その奥に本当の知恵があると言われています。ワールドメイトでは、それを御魂といい、陽明学では良知と呼ぶものがそれです。一般的な言葉で言うと、潜在意識と呼ばれるものになります。そこに人知を超えた神の叡智があるそうです。

禅宗で禅問答を行ったり座禅を行うのも、分別を越えるために行っているとのことです。

そのように分別を超え、高い境地に至っても、禅を離れて世間で生活をしていると、たちまちに悟りもどこかへ行ってしまうようですが。

そこで典座と言って、禅宗では毎日の食事の準備を高弟がするそうです。あるいは経理のようなお金を扱う役割も高弟がするそうです。料理で毎回同じ味を出すには、平常心が求められます。お金を扱い資金繰りをするのも平常心でやるのが難しいです。それだけに禅定を試され、揺るぎないものになっていく修行になるそうです。

禅のお坊さんはそれで良いと思いますが、一般の我々がそのような修行をやろうと思っても、さすがに山やお寺にこもって続けることはできませんよね。社会生活が営めなくなります。そこで、日常生活の様々な場面において、それらを実践することになると思います。

本当は禅宗でも、最終的な絶対境にまでいくと、平凡な日常に戻って修行しないと禅境は完成しないと言われているそうです。

続きは次回に。

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