深見東州(半田晴久) 氏の年間イベント一覧
「クリオネやチンアナゴより巨大な作品が泳いでる、深見東州バースディ個展!!!」を鑑賞

今年3月に開催された、「クリオネやチンアナゴより巨大な作品が泳いでる、深見東州バースディ個展!!!」を見た感想を書きたいと思います。

その前に、深見東州先生が描かれる絵画作品について専門家の評価を紹介しておきます。最初に深見東州先生の絵画の才能を見出したのは、元求龍堂編集長の松井武利氏でした。「深見東州に画家としてすこぶる期待が持てるのは『画家の三要素』と言われる能力を持ち合わせていることだ。『純粋』、『素朴』、『稚拙』である。この画家のどの作品にもこの三要素が見て取れることだ。」と、当初から評価していました。さらに巨匠にはこの3つの特徴があると言われていた記憶があります。

絵画作品をどう観るのか、そのポイントがわからなかった僕にとって、その説明は、それ以降、いろいろな絵画作品を見るときの一つの尺度になった気がします。写実的に細密に書かれた古典派の作品は別としても、少なくとも近代の印象派以降の有名な画家が書く絵には、そのような傾向が見られると思います。

深見東州先生の絵画については、その芸術性を的確に表現するのに良い言葉が、なかなか見つかりにくいと思いますが、ここ数年は松井氏に続いて故ワシオトシヒコ氏、勅使河原純氏、名古屋覚氏、清水康友、小川英晴氏など、作品の解説を行う評論家も増え、それぞれが個性ある表現でもって論評されていますね。

専門家の論評は

今年から新たに作品を論評するようになった小川英晴氏のコメントから、その一部を紹介すると、「この画家は何よりも遊び心が旺盛です。それは描いた作品ばかりではなく、タイトルの付け方にもよく表れています。そのせかいは純朴でありながら、一方で壮大な世界観を持ち、何より自分自身からも自由であろうとしています。それはこの画家の世界に童心があるからでしょう。

無垢な心情と稚拙とも思われる表現が、かえって作品上の深い味わいになっているのも、この童心を今日まで大切に育ててきたからに他なりません。今回、私は2000点近い深見東州の作品を見て、そこに永遠の流れをじっと見つめる一人の少年の姿を認めました。願わくば美の狩人として、これからも、見果てぬ夢の彼方にある世界を描き続けてほしいと思っています。」と、論評していました。

当の深見東州先生は、評論家の解説に対しては、以下のように語られています。

「評論家の方々が選ぶ作品は屈託なく遊んだ作品が多いですね。何にも考えず、いつも面白がって描いているだけなのに、そんな意味があるなんて解説を見て、作者の私はいつも感心します。ピカソは生涯に一万3500点の油絵と素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を製作しました。私はまだ作品数が3546点なので、ピカソに比べると足元にも及びません。そこで絵と書を合わせた作品数で、ピカソに追いつこうと精進しているのです。仮に1年に200点書くと、100年で2万点。少なくともあと50年生きて一万点は作ろうと思っています。」

ということで今回の個展では、評論家が選ぶ「選りすぐり絵画展」も兼ねて開催されました。10年前の、2014年から3年間、「月間ギャラリー」で連載された「絵を観る人も好き好き、この一品」、その後2016年から今日まで連載中の「画人悠々」に掲載されている深見東州先生の絵画と評論、また約9年前から「月間美術」で連載中の「わがまま絵画点評」に掲載された深見東州先生の作品から、最近1年間のものを中心に評論家が選んだ80点と、この1年間で書き溜めた新作55点、さらに過去の人気作38点を加え、170点の絵画と書の作品が展示されていました。

以前は本当に毎年200点前後の作品を創作されてました。さすがにここ数年は、作品を描く時間をとるのがなかなか難しくなられたようで、50点前後になっていますが。

詩心とは芸術そのもの、詩心が絵にあれば絵心

今回は、深見東州先生の作品を理解する助けとなる言葉を、自らパンフレットに書かれていました。

「芸術とは詩心。詩心が絵にあれば絵心、歌にあれば歌心だ。詩心とは、芸術そのものと言える。人に詩心がなければ、クリオネやチンアナゴの方がいい。存在そのものが詩だからである。命の尊さ、命の輝きに感動する。それが詩心。それが芸術、それが人にある神。私はそれを大切にする。何才になっても大切にする。その表現が私の書画作品なのです。

たとえば、今回の新作「空飛ぶクリオネファミリー」なんかは、一見すると小学生が描いたような絵ですが、そこにはクリオネの生命が宿っていますね。クリオネという小さな可愛い生き物が健気に生きている、そんな生き様に感動を覚える絵になっています。

深見東州先生は、細密画を書かれることも稀にありますが、大半は抽象的だったり、わざと稚拙に書かれます。風景画も写実的には描かずに、かなりデフォルメした姿や色使いで描かれたりもします。そんな山でも海でも、そこにその自然の持つ命の輝きや、強い個性やエネルギーを感じる絵になっています。だから、いくら稚拙に描かれているからといって、それを真似して描こうとしても、同じように輝く絵にはならないと思います。

そして色の使い方や構図の取り方、想像もつかないようなモチーフなど、技術的にも創作的にも優れたものがあります。非常に独創的で真似できない作品も多いと思います。

「月刊ギャラリー」という美術雑誌は、編集長がよほど深見東州先生の絵画を気に入っているのでしょうか、ここ数年、ずっと深見東州先生の絵画を表紙に使っています。それが良い効果を生み出していて、どこにもないアートなかっこいい表紙に毎回なっていると思います。

最後に、深見東州先生の描く絵画には、悲惨な戦いとか悲劇とか、人間の暗い影を描いた作品の存在が、記憶にはありません。それは深見東州先生に、以下のような考え方があるからなのでしょう。

「孤独や空虚さは、詩心や創作の糧にはなりますが、そのまま描くのは、我の押し付けでしょう。それは宗教や文学に任せた方がいい。美術なら、そこに明るい美しさや面白さ、魂のほとばしりがないと、感動しないし、作品も愛せません。」

これと同様に、深見東州先生は小説も書かれますが、やはりシリアスな人間や社会の本質を追求する物語は宗教に任せて、小説では書く気になりませんと言われていましたね。

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