深見東州(半田晴久) 氏の年間イベント一覧
ワールドメイトで、物事を継続する秘訣を学ぶ

今年のワールドメイトの正月神業で、深見東州先生よりいくつかの素晴らしいお話を聞けました。以前から言われていた大切な内容で、それを改めて話されたものもありますが、今年一年の個人的な目標をかかげる参考にもしています。

あとで、その話の内容も少し紹介しようと思いますが、その前に、その話とも関係することを書きたと思います。

私が、このサイトを始めてから、すでに10年以上が経ちました。内容はともかくとして、我ながらよく続けてきたなと思うことがあります。

仕事が忙しいので、途中、何度も止めようかと思ったこともありました。また、深見東州先生のことを多くの人に紹介できればと思い始めたわけですが、実際にやってみると、文章を書くのはとても大変なことでした。

それでも、紹介したいという衝動に駆られて、ここまで書いてきたわけですが、正直、文章を考えるのが面倒くさいと思ったこともあります。また、こんなことやって何になるんだろうと思ったことも何度かありました。

しかしせっかく発願して始めたことなので、最低10年間は続けようと思い、止めずにきました。10年間というのは、ワールドメイトに入会して最初に聞いた「堅・誠・恒」というお話からきています。

ワールドメイト会員じゃない人は、「堅・誠・恒」とはなんぞやと思われるでしょう。一言で言うと、道を成就させるための大事な3要素と思ってください。

道というのは、宗教でしたら神様ごとの道ということになりますが、他にも道と名のつくものは色々ありますよね。神さまには「真・善・美」の3つの局面があると言われていますが、宗教はそのうち善の局面の一つにすぎません。他にも教育や福祉、スポーツなども神様の善なる局面の一つと言われています。

また、真とは科学、学問、経営もそれにあたります。美はいうまでもなく芸術に関する分野になります。このような真善美における様々な分野は、神なるものが現れる局面と言え、神様の道に叶う分野と思って良いかと思います。

そして、それらの道を生涯貫いてきた人は、信仰心のある人だと定義されています。何も、神様を信じ続けた人だけに、信仰心があるわけではありません。音楽家にとっては「音楽」が神になるわけですね。

それで先ほどの「堅・誠・恒」とは、それらの道を成就するためのポイントになると言われています。

例えば、病気を直すための原因を探り、治療方法を研究する医学者でしたら、何としてもこの病気を治療できる方法を見つけて、多くの人の命を救うんだと、堅い志を立てて努力していることでしょう。

医療の道に生涯を捧げた野口英世も、そんな人だったと思いますが、その堅い志、どんなことがあっても志を曲げない強い意志、そんな堅忍不抜の「堅」が、まず最初の大事なポイントになります。その「堅」が本物であれば、志を遂げるためのあらゆる努力を惜しまずに行うことでしょう。

しかし、それだけで道が成就するわけではありません。うまくいったときには、人間ですから驕りが出るかもしれません。始めは立派に努力し成果を上げていても、途中で道を踏み外す方向に行く人もたくさんいます。ですから、次に大事なポイントは「誠」になります。これがある人は、いつも謙虚に自らを省みます。真心で持って、自身が立てた志に対し、口と心と行いがぶれていないか、己を正しながらいつも誠を尽くしていこうとするでしょう。

その2つのポイントに気をつけると、道からそれずに行けると思いますが、しかしそれだけでも道は成就しません。最後の「恒」が、一番大事なポイントになってきます。

せっかく一生懸命にやってきたのに、何かの理由で途中で止めてしまうことになっては、もったいないことです。人間ですからある程度やっているうちに、疲れたし、もうそろそろいいかなと思うこともあるでしょう。最初の強い志も、いつの間にか何処へやら消えてしまうことも普通にあるでしょう。

あるいは最初に飛ばしすぎて、頑張りすぎたために息切れし、そのままプッツンしてしまう人もいると思います。また、人間関係や組織で嫌なことがあり、我慢できなくなって放り出したり、努力をやめてしまう人もいるかもしれません。

芸術のような習い事やスポーツなどでしたら、すぐにうまくなるとは限りませんから、最初の志が強くても、努力が長続きしなければ、せっかくの才能があったとしても開花することもないでしょう。

逆にいうと、10年を一つの目安に努力し続けることができれば、才能が磨かれ、少なくともお金になるレベルにはなると言われています。道というものは、お金になることを目的としてやるわけではありませんが、一つの目標にはなると思います。「堅・誠・恒」でもって、目安として最低10年続けると、その分野において、ひとかどの才能にはなるということです。

最初に書いた、最低でも10年は続けようというのは、そこからきています。もちろん、10年と言わず、20年、30年、生涯にわたり続けていくならば、さらに素晴らしいと思います。

私ごとになりますが、このサイトでは、毎年平均10万字~15万字程度の活字を書いてきたと思います。結果はともかくとして、書くからには少しでも良い文章を、また良い内容になるようにと思って書いてきました。

それで8年目くらいに気がつきましたが、私の本来の仕事において、このサイトで文章を書いてきたことによって得た力が、大いに役に立っていることを実感することになりました。

仕事に役に立つ能力を磨こうと思って書いてきたわけではありませんが、10年以上続けてきたことによって、思いがけず仕事能力の向上に繋がり、それが金銭的なものにも跳ね返ってきたことになります。

その経験から、最低でも10年以上続けることの意義は、本当に大きいと思うわけです。しかし、その続けていくことが実は最も難しいと言われています。そこで、「恒」が最も大事なポイントになるわけですね。

スポーツや芸術分野に関する道でしたら、それだけを本業にする人も多いと思います。アマチュアとして、仕事と並行してやる人もいるでしょう。道にとってはどちらでもあまり関係ないと思います。どちらにしても磨き続ければ磨き続けるほど、金銭的なものにもつながると思いますが。

そしてスポーツの世界では、長く現役でやれないものがほとんどですので、やるだけやった後は、第2の人生を歩む選手もいると思います。

しかし、これが神様への信仰の道と言うことになると、10年間は頑張ったから、もうそろそろいいかな、という類とは少し違うように思います。

宗教の目的の一つとして、神様を信仰する中で人格陶冶していくことがあげられます。そのような人間の修養に関することは、本来、生涯かけて取り組んでいくものではないかと思います。

とはいえ、生涯にわたって続けていくことは簡単なことではありません。それを続けていくには、いくつかのポイントがあるとのことです。一つは、人生には年代によっていろんな山坂があるように、そこをよく考えてペース配分をすることが決め手になるようです。それは、様々な年代における自分自身の人生を、自分はどう生きるのかをよく考えて、それを考慮しながらやることでもあります。

それから、やはり学問の力が必要になるそうです。深見東州先生が、なぜ、あんなに様々なことを、疲れることもなく継続してやり続けることができるのか。しかも全てにおいてが、一定以上のハイレベルですから驚くしかありません。

その原動力となる秘訣は、万巻の古典を擦り切れるまで読み尽くしてきた真の学問が身に付いていることがあるそうです。古典の中には、古の優れた人たちが、どのようにして人生を切り開き、志を全う成就してきたのか、あるいは、どのようにして困難に打ち勝ち、己を奮い立たせてきたのかなど、あらゆる答えが書いてあるそうです。

深見東州先生には、様々な困窮や試練を経験する中で、それらの古典を読み尽くし自分のものにされてきたプロセスが豊富にあるので、深見東州先生自身に確固としたフィロソフィー(哲学)が確立されています。それが揺るぎない不動の心や、誰もできないような努力を継続する源になっていると思われます。単に、神様を強く信じているから、継続できるというわけではなく、その学問や教養の厚みが、私のようなワールドメイト会員との大きな違いの一つでもあると常々感じています。

最後に、この度の正月神業で話されたことのさわりを少し紹介して終わります。今回書いてきたことの中で、真の学問の部分と重なる部分があるのですが、ポイントは義の心でした。

義とは、義理人情とか、義勇軍などの義でもありますね。たとえば三国志の諸葛孔明は今でも人気がありますが、劉備玄徳が亡くなった後の諸葛孔明の行動を見ると、義の心にあふれていた人物であることがわかります。

劉備玄徳の跡を継ぎ帝となった息子の劉禅は、残念ながら暗愚な人物だったと言われています。蜀の初代皇帝劉備が亡くなる時も、後継の劉禅が補佐するに値しないときは、孔明が代わって皇帝になるようにと命じて亡くなったそうです。

しかし孔明は、最後まで劉備の意思を継ぐだけではなく、劉禅を主として、蜀の丞相として漢王朝の再興に全力を尽くし、最後は戦場に没しました。孔明が最後の出陣に当たって劉禅のために書いた出師表を見ると、孔明の劉備に対する恩義の強い思い、そして劉禅に対しての忠義をも強く感じさせるものがあります。

日本にも、義に厚い人物というのは歴史上にたくさんいますが、孔明と同じく戦の戦術に長けた楠木正成が、忠臣としてよく知られていますね。戦の天才でありながら、最後は作戦が後醍醐天皇に受け入れられず、負けるとわかっている戦いに赴き、命を落としました。

孔明も楠公さんも、いずれも私利私欲がなく、損得勘定抜きの行動に見えます。孔明ほどの人物なら、自ら皇帝になるとか、他国と交渉して保身に走ることもできたことでしょう。楠公さんも、むざむざ死ぬことはなく、尊氏も楠公さんに感服していた節がありますから、相手側につくことだって容易にできたように思います。しかし、いずれもそうはせず、初志を貫き、主君への忠義を貫いて死んでいきました。

そのような話は、日本の歴史の中にはたくさんあると思いますが、そんな義の心を持つ人たちは、たとえ道半ばに倒れたとしても、後世に高く評価されたり、大衆からの人気も出てくるようです。みんな義の心に強く惹かれるからだと思います。それを最後まで貫いた生き様に共鳴し、感動するからではないでしょうか。

しかし道を貫くというのは、そう簡単なことではありませんよね。途中にはいろんな誘惑がありますし、また、不利になった時は保身に走るか、志を変え周りを裏切ってでも、有利な方に寝返りたくもなるでしょう。あるいは飽きてきたり、最初の志に意義を感じなくなったりすることもあるかもしれません。人間ですから、多くはそんなものだと思います。

それだけに、暗愚で支える価値が無いような主君であっても、あるいは、自分自身の信じる戦略が全く受け入れられず理不尽な戦になって死ぬことがわかっていても、それを義の心で、最後まで貫き通した人物を見ると、本当に素晴らしい人だなと、心から思えるのではないかと思います。

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