深見東州(半田晴久) 氏の年間イベント一覧
ワールドメイトで実感した、宗教団体におけるお布施の真意

世の中には宗教団体なんて所詮は金儲けさ、と嘯く人がいますね。あるいは熱心に信仰しているように見えていた人が、途中から宗教は金儲けだと言って、信仰をやめてしまう人もいるようです。

僕の個人的な意見ですが、そのように思われてしまう宗教組織にも、何らかの問題があるのかもしれません。あるいは本当に詐欺グループが、宗教を装い、お金を集めている事例もあったと記憶しています。しかし、そのようなものは所詮は長続きしないと思いますので、警察や司法に任せておこうと思います。

これも個人的な考えですが、宗教活動を金儲けだと思う人は、宗教の本質を理解していない人に多いのではないかと思います。たとえ一時期宗教団体に入信していたとしても、"おかげ信仰" の罠に陥っているようにも感じています。

世界にはいろんな宗教がありますが、そんな宗教団体を通じて、10万円を神様に捧げる人、100万円を捧げる人、1000万円を捧げてきた人、あるいは一億円以上を捧げたというリッチな人も、中にはかなりいると思われます。

宗教活動において、いくらかのお布施をすることは当たり前の行為になっていると思いますが、宗教によっては、いくらと決まっているところもあります。多くは、分相応に寄付を行うのが普通になっているように思います。

そのようなお布施や寄付のやり方は、宗教組織によってかなりの相違があり、その結果、中には弱者を救うのが宗教なのにお金をもらうのはおかしいとか、金儲けに見えるという人も、少なからず出てきてしまうのかもしれません。

それぞれの宗教によって考え方、運営のやり方があると思いますので、宗教団体に対してどうのこうのいうつもりはありません。できることなら、そんな誤解を招かないやり方ができるようになれば良いのにと願っています。宗教の必要性を強く感じている一人として、宗教団体が悪徳団体のように誤解されるのは悲しいことですからね。

僕は宗教組織を運営するにもお金が必要だという、現実的な側面を理解しているつもりです。その上で、いらぬ誤解を招かないためにも、あるいは誤った信仰に陥らないためにも、今回は信者からみたお布施の意義、寄付の意味について、少し書いてみます。

信仰から見たお布施の意味

お布施や寄付というのは、信者からすると、神様への信仰の誠を表す行為の一つであり、信仰の道を深めるものだと思っています。

もしあなたが、1000万円の現金をどこかに落としてしまい、それを誰かが拾って警察に届けて、あなたの元に戻ってきたとします。そうすると届けてくれた相手に、心からの感謝の気持ちを表すでしょう。そして決まりだからというより、心から感謝の気持ちを込めて、お礼に100万円くらいを相手に渡すと思います。

そのように形に出すことで、相手も本当に心から感謝してもらっていることを、深く実感することができるでしょう。もしかすると相手が受け取らずに去ることもあるかもしれません。

また、結婚相手に素晴らしい人を紹介してもらい、本当に幸せになった人がいるならば、その後も、何かにつけ感謝の印として、紹介してくれた相手に贈り物を送ったり、家に招いてもてなしたりと、気持ちを形にして表すのではないでしょうか。

相手もその行為によって、本当に感謝してくれていることを、深く実感できて嬉しく思うでしょう。そしてありがたいことだと感じ、何かあれば、またあなたの力になってあげたいと思うことでしょう。

それが人の心を動かす誠と言われる行為ですね。誠は心の中で感謝の気持ちを抱くだけではなく、それを口に出し、さらに感謝の気持ちを行動で表した時に、感謝がより本物になり誠になるのだと思います。相手の心中深くまで響き、相手もその誠に対して何らかの形で応えてくれると思います。

神様に対しても、それとまったく同じようなことが言えると、ワールドメイトで深見東州先生は言われています。実際にワールドメイトでは、そのことを何度も何度も体験してきました。

信仰は心の中で神仏を敬い続け、慕い続けるものですが、それだけでは十分とは言えません。人間同士でも、相手のことを心から好きで、慕っているのであれば、何らかの行為に出ると思います。別に相手を襲うとかではありませんよ(笑い)。相手が喜ぶところを褒め称えたり、あるいは喜ぶものを贈ったり、喜んでもらえるなんからの行為をするのではないでしょうか。

もちろん神様というのは、人間の恋人や親とは違いますけどね。

神様は、生身の人間と違って目に見えず、いるのかいないのかわからないと思います。しかし人間一人一人を、親や優秀な先生、社会の指導者とは違う形で、高所大所からさまざまに導いている存在だと思います。そして人間に人格があるように、神様も高貴な人格のようなものをお持ちです。

そのような神様に対しては、好きな人、尊敬する人に対するときと同じように、感謝の思いなどを口に出したり、神様が喜ぶような行動をすることで、はじめて神様に対する真剣な思いが伝わっていくと思います。それが神様への信仰、誠の信仰に昇華していくのだろうと思います。

誠は必ず神様を動かしますので、神様が実在することを実感できるようになり、さらに信仰が深まるのだろうと思います。

神様と人間の取引は成立しない

しかし、ここで間違った信仰に陥る罠があります。その一つがおかげ信仰です。いろいろとお玉串をしたり、参拝に行ったり、ご奉仕活動を熱心に行ったりと、神様への善なる誠を表す行為をたくさんしているように見える人がいます。

しかし心の奥底では、その行為によって、神様から何らかの見返りを当然のこととして求めている場合、すでにおかげ信仰に陥っているか、いずれ陥る可能性があると思います。神様と取引しているからだと思います。

微妙な例えかもしれませんが、高価な贈りものを相手に送り、その見返りとして、必ず結婚することを求めるのであれば、それはちょっと違いますよね。相手も自分自身も幸せにしたいという愛情から出た行為であるなら良いと思いますが、相手を手に入れるための見返りにと高価なものを贈るのであれば、好きなものを手に入れたいという欲心が強いように思います。

それでも人間同士であれば、取引として成立するかもしれませんね。しかし神様は人間に真心がこもっていなければ受け取られません。形だけでは取引はされません。心の奥底までを見透かされていますから、神様を騙すこともできません。

誠とは心と言動と行動が一致していないといけません。その最初の心の部分において邪な思い、不純な思いが強い場合は、えてしてそれは紙一重かもしれませんが、言動と行動が表面的には素晴らしいものに見えても、心から発する動機が善とはいえないため偽善と言えるでしょう。

善なる思いからくる誠でなければ、神様は動かれず、実感することもできないでしょう。徳を積むこともできませんので、証も出にくいと思います。

最初に10万円を捧げた人、一億円を捧げた人・・、と書きました。たとえ一億円を神様のために寄付したとしても、心では神様のためや人々への愛からというより、自分自身への見返りを求めての寄付であれば、神仏のおかげや功徳は期待できないでしょう。

達磨太子が、梁の武帝による仏法への多大な寄進に対し、無功徳だと喝破した逸話が残っています。それも同じような意味だと思います。それが神霊界の真実なのだろうと思います。

逆に10万円であっても、心から神様のために、そして人々の幸せを思って寄付したのであれば、それはどこかで最低でも同等か、ふつうは何倍にもなって、何らかの形で返ってくることでしょう。いつ、どこで、どのような形でかは人それぞれに違いますが。

見返りを求める気持ちを持っていたとしても、最後は神様に全てを任せ、一番良い形にしてくださると信じていれば、それでも良いと思います。神様に寄付できたことへの感謝の気持ちも忘れずに持っていればの話ですが。

そういう人は、たとえ何もなくても、すぐに見返りがないからと文句を言うことも、騙されたと思うことも、ましてや宗教は金儲けだというような人もいないでしょうからね。そのうち必ず、本人が気がつかなくとも、何らかの神徳をいただけるようになると思います。

人間の欲望も性質もご存知

ここで少し別な観点から書くと、一億の貯金がある人が出す10万円と、100万円の貯金しかない人が出す、10万円では、その重みも違ってくるようです。やはり100万円の貯金しかない人が出す10万円の方が、より誠がこもることが多いと思います。

では貯金がほとんどない人が、無理をして10万円を出すと、さらに誠がこもるかというと、そうとも限りません。

苦しいのに無理に出してしまうと、苦しいのに無理して出しているという強い思いが湧きます。それは執着心という黒い雲のようになっているそうです。これだけ無理して出したのだから、大きなお陰が出るのではないかと強く期待してしまうからでしょう。

そうすると神様のために、人々の幸せを願ってお玉串を捧げたとしても、その気持ち以上に黒い執念が覆ってしまい、神徳を帳消しにしてしまいかねません。帳消しならまだマシですが、自らの悪想念によって、悪いことを引き寄せてしまうかもしれません。なので、良い行いであったとしても、無理のしすぎは良くないと言えます。

純粋な神様への思いや感謝とか、世のため人のためを思う心が大事なのですね。ただ人間は聖人君子のようにはいきません。最初からそんな高貴な思いで信仰の道に来るひとは、あまりいないと思います。自分の悩み事を解決したい、運がよくなりたい、そんな思いで信仰をはじめる人が多いかと思います。

僕の場合は、神様のことを含め、何がこの世の真実なのか知りたい、という思いが強かったと思います。いずれにしても神様から見ると、己の好奇心の満足や自己実現が主であり、純粋な神への思いや感謝からくる信心とは違う、危うい、もろい動機だったと言えますね。

しかし神様は、人がそのような自己中心的な思いを持つのも無理もないと、わかってくださっているようです。ですので、はじめのうちはそれでも目をかけてくださると思います。だんだんと学びを深め、体験を積んでいくうちに変わっていけば良いと、おおらかな目で見て下さっていると思います。

そうするうちにワールドメイトの場合は、おかげが出たりすることで、神様のことを体感でき、本当の信仰へ目覚めていく人が多いように感じています。

いろいろ学び体験を積み、信仰が深まるにつれ、今度はその人の持つ業を早めに無くしてあげようと、また本物の信仰心を確立させるために、おかげが出なくなったり、さまざまな試練が来ることがあります。

また何年たってもおかげ信仰が抜けない人は、全くおかげが出なくなったり、自分自身の業によって苦しむことがあるかもしれません。

中にはそれらが原因となって、神様への信仰に迷いが生じる人も出てくると思います。もともとおかげ信仰がベースにあることや、自分自身の業に起因すると思いますが、残念ながらそれで信仰から離れてしまう人もいるのが現状だと言えます。

そのような人の中には、宗教はコリゴリだと、批判的、懐疑的になる人もいることでしょう。私もワールドメイトに入会する前、違う宗教ごとにお金をかけていたことがありました。ワールドメイトに入会し、以前のところは私が求めているものではなかったことに気がつきましたが。

そこで費やした時間や労力、金銭が無駄だったなと思ったこともありました。しかし僕が未熟でいたらなかっただけであり、相手が悪いとは思いませんでした。だから責めたり批判をすることもありませんでした。信教の自由を尊重していますし、また、そこが必要な人もいるのだろうと思うことにしています。

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