深見東州(半田晴久) 氏の年間イベント一覧
ワールドメイトで知った、神仏が最も戒めること

今日は、もっともやってはいけないことについて、少しばかり書いてみます。といっても法に触れる犯罪行為のことではありません。また、人に対して嫌われる行為という意味でもありません。自分自身の成長のためにやってはいけないこと。すなわち自分の進歩向上にとってマイナスなことだといえるでしょう。

向上するのが面倒くさいという心

答えはそんなに大げさなものではなく簡単なことです。それは向上するのが面倒くさいという心です。この面倒くさいという心は、誰しも多少は持っているでしょう。怠けたいという気持ちが起きない人がいるとすれば、それは本当に素晴らしい人だと思います。少なくとも私は、毎日のようにどこかで面倒くさいという心と戦いつつ暮らしています。

たとえば妻の話をもう少し聞いてあげて、気持ちを分かってあげるだけでもいいのに、面倒くさいから、ついそんなことできるはずがないよと簡単に済ませてしまう日々があります。女性には感情を分かってあげるのが大切だとは、ワールドメイトでよく言われることです。たとえ現実にはできないと思っても、否定せずできないながらも少しづつ近づけるようにしていく気持ちを表すだけでも違うと思いますが、無精な男にはなかなか実行することができません。また、子供が興味持っていることに、すこし関心を持ってみるだけで、随分と子供への接し方も変わると思うのですが、仕事で忙しいし、そんなバカなこと知ってどうなるという思いもあり、面倒くさくていちいち相手にできないと思ってしまいます。

これが仕事になると面倒くさいなんて言うと仕事になりませんので、面倒くさいことでも我慢しつつ、やりたくないという心に打ち勝ってやるでしょう。それでも、たとえば良いアイディアを思いついた時に、実行に移すには多くの人を説得しなくてはならないとか、その準備のことを考えるとつい躊躇ってしまうことがあります。冷静に考えると生活や仕事において、こうやった方が良いというのはわかっていながら、面倒くさいからいいやとなっていることが、たくさんあることに気がつきます。最近では、ワールドメイトで筋トレをやる重要性を聞き、やる気だけはあるのですが、疲れて帰ってくるとなかなか実行できません。明日からにしようとなって、それが毎日続いております。
そのように、面倒くさいという気持ちが起きると、どこまでも怠けてしまいます。

ワールドメイトで神様は怠りを一番嫌うことを知る

それでワールドメイトの深見東州先生によると、神様は怠りを一番嫌うということです。怠け癖のある面倒くさがり屋は、今のような厳しい社会では出世しませんし、周りから疎まれると思いますが、神仏も怠りを一番嫌うと知りました。それでも人を見捨ることはないですが、少なくとも積極的に守護されることもないそうです。そもそも怠り気味の人は神様に祈ることもしないでしょうし、またワールドメイトに入会して学ぼうという気持ちすら起きないでしょう。少なくともワールドメイトに入会した人は、入会するにあたって会費を収めるのが面倒くさいとか、家族に説明するのがとか、何かに参加したり所属するのが面倒くさいという気持ちを振り切って入会してるでしょうから、(中には何も考えず入会する人もいますが)怠りの思いは少ない方でしょう。怠りの極致のような人は、神様に何を願っても聞いてもらえることはありませんが、ワールドメイトに入会する人は、少なくともそんな人ではないと信じています。

面倒くさい心からくる怠りが、いかに人生にマイナスになるのか、これ以上の説明はいらないと思いますが、その怠りの思いを打ち破るには、とにかくその心に打ち勝って面倒くさいことに気迫でチャレンジし、そこでやり遂げた時の感動や思い出を持つしかないようです。そうする中で神仏の導きを感じることもあるでしょうし、その感動の体験が、次から面倒くさいという心に打ち勝つ支えになると思います。

なぜ、神さまが怠りを嫌われるかというと、怠りを反省しそこから脱却しても、それまで怠けて何も積み重ねてこなかったわけですから、蓄えたものもゼロに近いわけです。それならやはり神仏が嫌う傲慢不遜な方が、まだマシだそうです。傲慢な人間は鼻持ちならないし嫌なものですが、かなり努力をした結果、成果が出て人気が出て思い上がり、傲慢になってしまったのでしょう。痛い思いをして反省し謙虚になれば、過去に積み重ねてきた努力や体験はその人の中に残ってるので、蓄えはゼロではなく、進歩向上の糧になるわけです。その違いはとても大きいそうです。方向性がずれていただけで、怠けて何もしなかったのとはわけが違うわけです。だからこそ怠りこそ、一番やってはいけないことなのでした。

なまけもの

法は人が幸せに暮らすための最低限度のルール

とうことで、面倒くさいという心からくる怠りが、神仏の世界から見ると最も戒めるべきことになるのですが、もちろん人間の基準では、怠けよりももっと重く戒めるべき事柄もあるでしょう。

すこし話は逸れますが、法によって定められた罪にはいろいろな段階があり、重い罪になるほど、より戒めるべき事柄であると言えるでしょう。
法は人が幸せに生きるための最低限度の基準をルール化したものですから、その定められた基準を守ることは当然のことです。これが守られない社会では、人は最低限度の幸せすら手に入れることができなくなります。実際にそういう地域や国が、世界に存在するのですから、とても嘆くべきことです。シリアやアフガニスタン、アフリカの一部の現状を見ると、特にその思いを強くします。そして無法な無差別テロによって、多くの方たちが亡くなり、また紛争によってたくさんの人たちが苦しみ、亡くなっていることを危惧いたします。パリの同時多発テロでは、多くの方が残虐な殺されかたで命を亡くしました。世界中の人が悲しみました。しかし同じようなことは、シリアやレバノン、イラク、アフリカなどでも、日常的に行われています。私もワールドメイト会員の一人として、心の底からこのような紛争がなくなることを願い続けます。

話が逸れましたが、そのように人が幸せに暮らすための最低限度のルールさえ破綻した地域では、ひたすら生き延びることだけを考える毎日になるでしょう。幸せになるなど論外でしょう。まことに悲しむべきことです。だからと言ってルールさえ守られていれば、それだけで良いということでもありません。本来、ルールや法を守るのは最低限度のことであり、それが人としての理想の社会ではありませんし、ルールを守るだけで本当の幸せになることもないでしょう。人間として幸せに生きていくには、もっともっと多くの要素が必要になると思います。

真善美を磨くことは、幸せになるための最高の価値観

人として最も高い理想を表すとき、真善美という言葉がよく使われます。ワールドメイトでは、真善美は神の3局面を表していると言われます。真善美を探求し極めることは、広い意味での信仰心になるのかもしれません。真善美が人としての理想の姿であり神の局面であるならば、真善美を磨かずに怠たれば、神様が嫌うのも当然でしょう。「神様が最も嫌うのは怠り」というのは、怠りでは真善美を磨くことができないからかもしれません。

神道には天津罪、国津罪という言葉があります。国津罪は殺人や盗み、暴力などです。天津罪は自分自身の才能や徳分を磨かなかった罪です。もっと精進すれば素晴らしくなる才能を持っていたのに、精進しなかったために才能を生かすことができなかったという罪です。要するに怠けの罪です。これも神さまから見ると、天津罪の方が重いそうです。その背景となる理由は、前回に書いたことで納得できるかと思います。

 

そして、怠りの次に神様が嫌がるのが、「狎れ」だそうです。これは慣れや馴れとよく混同されがちですが、習熟するとかの「慣れ」ではありません。また、犬が飼い主に「馴れる」という意味でもありません。物事や相手に対して狎れ狎れしくなり、不遜な態度になり、侮り、油断するという「狎れ」になります。せっかく面倒くさいという気持ちを克服し頑張っても、次には、必ずこの狎れの状態がくると言われます。「慣れ」ならば良いのですが、この「狎れ」ではいけないと、ワールドメイトでは言われています。そこから油断が生じ、侮りが生じ、やがてまた怠りにつながるケースが多いからだと思います。

この狎れを防ぐことは、ある意味で怠りを防ぐことよりも難しいことかもしれません。ある程度の精進努力は、多くの人がやっていますが、狎れというのは、そういう人に起きやすいからです。少し成果が出ると安心して油断する、もう大丈夫だと思って侮ってしまう、自惚れて狎れ狎れしくなってしまうなど、わりに頻繁に起きることではないでしょうか。そういう時に早い段階で気がつき、パッと直せる人は素晴らしいですが、なかなかそうはいかないと思います。私もすぐには自覚症状が無いためか、後になり失敗してから反省することしばしばです。この狎れにも、大いに注意していきたいものです。

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