深見東州(半田晴久) 氏の年間イベント一覧
音大受験と大物歌手との出会い

先日、ワールドメイト会員の友人と、深見先生が音楽の道に入られたのは、常識的には考えられない35歳からだったよね、という話をしていました。

音楽の世界では、普通は小さい頃からやっていて成功する人が多ように思います。中には比較的遅い時期から始めて大成した人もいますけどね。それにしても30歳過ぎてから、声楽やポピュラーミュージックの世界でここまで実力を磨いた人は、なかなかいないのではないかと思います。なぜ、そんなに遅くから始められたのかは、ワールドメイト会員でしたら、ある程度聞いて知ってますが、巷では、ほとんど誰も知らないでしょう。

その前に、音楽家としての深見東州先生を知らない人が、まだまだ多いかもしれませんが、それはいずれ日本中、世界中に知れ渡る日が来るのではないかと思っています。

 

音楽業界に限りませんが、上手にプロモーションを行わないと、そう簡単には世間に浸透していかないのが音楽の世界だと思います。路上や小さなライブ会場で下積みし、ブレイクしていくミュージシャンもいますけどね。

深見東州先生の場合は、音楽だけではありませんので、時間的にそんなことはできません。かといって、プロモーション活動などもされないですから、そう簡単に知れわたらないのは仕方ないことでしょう。深見東州先生も、有名になりたくて音楽をされてるわけではないので、どちらでも良いのかもしれませんが、そのうちに知れ渡る日が来るでしょう。それだけの内容をすでにお持ちですからね。

 

そこで今日の本題になりますが、深見東州先生が本格的に音楽を始められた時の話について、少し書いてみます。深見東州先生にすれば、30代の前半までは音楽家になるなんてことは、全く眼中になかったのではないかと思います。

ところが、35歳前後のある時期からピアノを習い始められます。天啓で始まったといっても良いでしょうけど、それによって作曲などを手がけられ、素晴らしい交響曲やピアノ曲を残されました。いずれ別に紹介しようと思いますが、「室内楽 天の岩戸開き」「交響曲 箱根神社」の二つは、特に大好きな曲です。CDを軽く100回以上は、間違いなく聞きました。作曲家としての、深見東州先生の才能が爆発している作品だと思います。

なぜ、これが世界的に知られないのだろうと、当時、音楽業界や音楽産業について全くの無知だった私は、疑問に思ったほどでした。この良さがわからない人たちが、いるのかなとさえ思いました。それが、深見東州先生の初期の作品に始めて触れた頃の、私の軽い衝撃というのか、思い出です。

 

そして、次に「オペラ七福神来天」というオペラを創作され、それが、住吉大社で二期会の声楽家たちによって初演されます。1991年頃のことです。その頃は、作詞作曲や、ピアノ、バイオリンなど楽曲の演奏、また、歌も歌われてはいましたが、まだ声楽はされていませんでした。

ところが生涯の師匠である植松愛子先生に、あなたの声は、オペラを歌うような声だと言われ、それから声楽を始めることになります。それが40歳の頃です。そして、レッスンと独学で腕を上げられていきます。その翌年でしたか、鹿島神宮の奉納演奏で歌われた合唱曲、「鹿島の神を呼ぶ御歌」のソロ部分のかっこ良かったことは、今でも忘れられません。こんな良い声で歌う男性歌手は、初めてだと真剣に思いました。しかし声楽の実力としては、まだこれからだったようです。

 

そして、ある限界も感じられていたそうです。それで、やはり音大にいって学ばなければ、音楽理論の高い基礎や歌やオペラの高い領域にはいけないと感じたそうです。それで、音大受験を決心され、武蔵野音大特修科に入学され、若い声楽家たちに混じって46歳で卒業されます。さらに、48歳からは、西オーストラリア州立エディスコーエン大学芸術学部大学院に入学し、3年間で修士号を取得されます。その時に、世界5大バリトンのゴレゴリー・ユーリシッチ氏について学ばれています。

以後は、52歳から毎年フルオペラの主役や準主役を務め、それを10年続けてこられました。それがあって、今の深見東州先生のあの声楽の実力があり、また、ジャズやポップス、日本歌曲など、あらゆるジャンルの歌を歌いこなすことができるようになられたわけです。何もなくて、ここまでなれるはずがないですが、それは35歳からのピアノに始まり、その後、声楽を志し、さらに音大に飛び込んだからこそできたのではないかと思います。

 

最後に、ワールドメイト会員は知ってますが、音大を受験するときのエピソードを紹介します。

深見東州先生が、限界を感じて音大を受けなければと思い出したころから、急に釣りに凝りだしたそうです。もともと釣りはお好きだったのかもしれませんが、異常なくらいに熱心になられ、各地で釣りをされたそうです。そしてついに、素晴らしい魚がいるという話を聞いて、飛行機で南九州まで飛び、そこからはるばる船で5時間もかけてトカラ列島付近まで行ったそうです。そこで巨大なロウニンアジ2匹を始め、1メートル以上もあるような魚を16匹も釣り上げたそうです。確か、その時の釣りの成果が、スポーツ新聞で紹介され、それをワールドメイトで見せてもらった記憶があります。そんなすごい釣り体験をされたのです。

 

kappore

 

その時、はるばる遠方まで行き、しかも137センチ37キロのカッポレが釣れたということで、ものすごく感動されたそうです。それで、はるばるとこんな遠くまで行ったからこそ、このような美しくて大きい魚を釣ることができ、感動することができたんだと思ったそうです。それで、人間というのは、防波堤釣りで満足する人生もあるけども、はるばると遠くまで足を運んで、巨大な魚を釣るような感動的な人生もあると感じたそうです。

そういう大物がいるようなところには、やはり、はるばる飛行機に乗ったり、船で何時間も揺られたりして、そうやって飛び込んでいって、初めて出会えるわけですね。そういう釣りで学んだ揺るぎない感動体験があったからこそ、実は音大受験の勉強が続けられたと言われていました。44歳で音楽理論を勉強始められた時、何度も頭が真っ白になりそうなほど苦労されたそうです。でも、その時の感動の体験があったからこそ、勉強を辞めずに続けていけたのだそうです。

 

その時の教えは、その後の深見東州先生の生き様にも表れています。難しいことに挑戦しなければ、誰も出来ないようなことはできないということですね。はるばる遠くまで行くからこそ、素晴らしい大物との出会いもあるわけです。

今、ドミンゴやカレーラスのような超大物と、普通に共演することができるのも、あるいは、デビッドフォスター始め、世界のトップミュージシャンと共演できるのも、それは46歳で音大受験に飛び込んで学び続けたことがあったからでしょう。そのために、そういう感動的な大物カッポレを釣る体験があったと言えるでしょう。

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