ワールドメイトのゴールデンウィーク神業が終わりました。
今回は、熊野、鳥海山、鳴門と、3箇所に行きました。いづれもワールドメイトにとっても、日本にとっても、大切な神域といえる場所です。歴史的に見ても、熊野や鳥海山、出羽三山のあたりは、昔から山岳宗教の盛んな神聖な場所だったと思います。今でもその歴史は続いていますし、多くの名残も残っています。今風に言うならパワースポットということになるのでしょうか。
阿波の鳴門には、そういう宗教的な歴史はありませんが、しかしここも、実は特別な神域だと言われていました。出口王仁三郎は、「富士と鳴門の神仕組み」という言葉を残しましたが、そのまま謎になっていた場所でもあります。
日本には様々な神域(聖地)がありますが、中でも今回行った3箇所は、とても大きな意味を持つ場所なのでした。
ところで今回も、深見東州先生による様々なお話を聞く機会がありました。
詳しく書くと長くなりますが、最近の深見先生の動向に関することで、なるほどなと感じたことがありましたので、そのことにまつわることを思いつくまま書いてみます。
深見東州先生は、ワールドメイトができる10年ほど前から今日まで、ざっと40年ほど時計事業を続けてこられました。今年はビジネスに力を入れると、今年初めに言われていましたが、そのため芸術活動などを、今年は控えめにされています。
ところで宗教の教祖がビジネスもやっていると、欧米人は、なかなか理解に苦しむそうです。キリスト教圏では、牧師さんや神父さんが会社を経営し、ビジネスでも大成功している話はあまり聞きません。聖職者の地位にある人は、庶民のビジネスにはかかわらず、それだけをしているのでしょう。
そこで深見東州先生は欧米の人たちに、日本には、昔から聖と俗を区別して共存してきた歴史があることを説明されるようです。
日本には、信者としての信仰にとどまらず、僧侶のような聖職者の地位を持つ経営者もいます。宗教的な指導者としての中身がどうなのかは置いといて、日本では、そのように宗教とビジネスを区別しながらも、共存させる土壌があるのは確かだと思われます。
そもそもビジネスを誠心誠意行う日本人なら、ビジネスを俗界の、あたかも卑しいもののごとく扱われるのは良い気持ちはしないでしょう。江戸時代ならともかくとしても、現代においてビジネスを俗と表現することにはやや抵抗を感じますが、これも宗教用語の表現の一つなのでしょう。
便宜上、聖と俗という表現をここでは使いますが、要は、日本においては会社の経営者が、宗教的な指導者の位を持っていても、なんらおかしくない風土があることを理解できれば良いと思います。
さらに歴史を遡ると、武将でありながら僧侶でもあった歴史上の人物も多数存在します。上杉謙信や足利義昭などがそうです。これなど海外の人が聞けば、戦いのプロとしてたくさんの人を殺す人間が、聖職者を兼ねることができるのかと、矛盾しているのではないかと思うかもしれません。現代でいうなら、司祭のような宗教的指導者として高い地位にある人が、同時に軍隊の将軍として、戦争を指揮するようなものだと言われるかもしれません。実際には仏教には戒律があるため、その時代の人々も還俗してから将軍職についたりしています。それでも僧侶であり武将であったことには違いないと言えます。
現代では、武将として一国一城を率いる人はいなくなりましたが、かわりに会社の経営者が、経済という過酷な戦争のような中で従業員を率いて戦っているとも言えます。人の命を奪ったりしないだけで、経済戦線の中で勝ち抜いていく経営者には、戦国大名のごとき戦略の知恵と勇猛心と精神力が必要だと言えるからです。経営者に、戦国大名の戦術論やリーダーシップが参考にされるのを見ても、そのことがよく理解できると思います。
で、話を戻しますが、最近深見東州先生は、日本で様々な活動をする中で関わった人たちから、このようなまともなビジネスをされているのですね、と言われることがあるそうです。それは悪い意味ではなく、良い意味でのようです。まともなビジネスという表現も変な気がしますが、要は時計事業や予備校などの、まともな事業もされているのですねという意味なのでしょう。それで感心したのでしょうか。あるいは深見先生のことを宗教家と思っていた人にとっては、宗教家でありながら会社も立派に経営していることを、意外に思う部分があったのかもしれません。
そもそも日本では、新興宗教の教祖というと、不思議な怪しい人であるかのようなイメージを持つ人が多いです。しかしまともなビジネスを何十年も行ない、国内外で社会的な信用があるとなると、まともな人であるとわかって安心するのでしょう。逆にいうと、宗教や宗教者に対して、なんらかの偏見を持っていた証拠でもありますが。私もある意味でそうでしたので、人のことはとやかく言えませんね。
それで面白いなと思ったのは、海外では、宗教家がビジネスをやるのは理解されにくいのに、日本では、逆に安心されるということです。これは、先ほど書いたように、日本では聖と俗を区別して共存させてきたという、歴史的な風土のなせる業なのかもしれません。
実は私は、ワールドメイトに20数年前に入会した時、深見東州先生がワールドメイトの教祖でありながらビジネスでも成功されていると聞いて、最初は違和感と、不思議な思いを持ちました。宗教家は宗教のことしかしないと思っていたのです。しかし、やがてそのことを理解できるようになると、かえってその方が素晴らしいことだと思うようになりました。
そもそも日本では、神話の中においても、神様が農業をしたり機織りをしたり、喜んで労働している姿が書かれています。日本においては、真っ当に働くことは当然であり喜びであっても、欧米のように労働は原罪に対して与えられた罰であるという、宗教的なバックボーンからくる意識は持っていません。欧米ではバカンスや休日を楽しむために、一生懸命働くという考えの人が多いようです。日本人は、労働や仕事を生きがいにして、会社や社会に貢献することを喜びにする人が多いと思います。
そういう意味でも、宗教の聖職者であっても、普通に巷の人と同じように労働し、あるいは会社を経営したとしても、なんら不思議ではないどころか、むしろそれを両立させている人の方がリーダーとして素晴らしい資質を持つのではないかと理解できたわけです。
それから、日本に聖と俗を区別して共存させるという叡智があったからこそ、日本もここまで先進国として発展できたことにも気がつきました。
日本ではすべての山や自然を大事にするのではなく、主に神山と言われる霊験のある山や、鎮守の森などを他と区別して大切に守ってきました。それ以外の山や自然に関しては、それなりに開拓してきたのです。そのように使い分けているから、非常に合理的であり、先進国として繁栄できたと言われています。
もし、すべての自然を大切にすると、それはそれで良い部分もありますが、近代文明国家には脱皮できなかったでしょう。かといって、みさかいなく開発すれば、大切な日本の元になる部分までも失うことになったでしょう。日本における聖と俗を区別して共存するという慣習は、国土の狭い日本の国にとって、合理的な知恵を生むことにとなり、繁栄に繋がったのだと思います。
話を戻しますが、そのように深見東州先生の活動も、ビジネスとワールドメイトの宗教活動を、法的にも資本的にもしっかりと区別した上で、深見東州先生の中においては共存していると言えるでしょう。また、社会においても区別した上で共存しているのでしょう。
たまにみすず学苑のことを、ワールドメイトが母体であると思っている人もいるようですが、今のことが理解できれば、それが間違いであることがわかると思います。
ミッションスクールのような学校法人では、キリスト教の組織が母体となって資金を提供し創設したケースが多いです。そこでは、キリスト教の授業が組み込まれていたりします。ないところもあります。いずれも入信まで強要されることは、日本ではないと思いますが。
それに対してみすず学苑は、そもそも株式会社なので学校法人ではありませんが、宗教法人であるワールドメイトの資金で運営しているわけではないので、それらのミッションスクールとも根本的に違います。普通の予備校の経営と何ら変わらないわけです。また、未だかつて、みすず学苑の中でワールドメイトの布教しているなんてことも、耳にしたことがありません。
株式会社ミスズの時計事業も同じでしょう。ワールドメイトとは資本関係があるはずがないので、普通に時計事業を行う会社になるわけです。深見東州先生が経営されている時計店だからというので、私のようなワールドメイト会員が購入することはもちろんありますが。深見先生のお友達の政治家さんや能楽師さんなども、先日購入されていたようですね。
ワールドメイト会員は深見東州先生と友人関係ではありませんが、深見先生を尊敬する知り合いのような存在として、時計が好きな人は購入すると思いますし、実際に良い時計がたくさんありますので、見ると欲しくなりますね。それで欲しいものがあれば、無理しない範囲で、買いたい人は買うだけだと思います。深見先生の会社の売り上げにも貢献できるので、私のようなワールドメイト会員の中には、それを嬉しいと思う人もいると思います。そのように区別しながらも、社会の中で、普段の生活の中では共存しているのでしょう。
あまり、腕時計の知識はありませんが、時計業界に関する面白いお話も聞いてますので、これから時々そのことも紹介していこうかと思っています。