ワールドメイトで、生活の中に全てがあることを知る

ワールドメイトで、生活の中に全てがあると教えてもらいました。しかし、それを聞いただけでは何の役にも立ちません。実際にやってみて、意味がよく理解できないながらも、具体的にやってみないことには会得できるはずもないし、当然何も変わることはありません。

ありのままの自分になると、ロクなことがない?

その基礎として、生活における掃除、洗濯、洗い物、整理整頓など、一見あたりまえのことを、あたりまえにやることから始めます。それは素直になるということでもあるようです。素直になるというと、最近流行った、「ありの~ままの~、自分になるの~」という歌が、頭の中をよぎりますが、なかなかいい歌だなと思いながら聞いています。しかしここでいう素直とは、ありのままの自分になるのとは、少しばかり違うようです。ありのままの自分という歌詞は、すごく心を捕らえますが、ありのままの自分をそのまま社会の中で出してしまうと、おそらくイバラのような人生になる人も多いのではないでしょうか。それは、ありのままの自分と思っているその自分とは、実は、我と慢心と怠りを身につけた自分であったりするからです。だから、人と余計なことで衝突し、状況判断も狂い、やることなすことが、我の強い、いわゆる我力で行うから、努力の割にはスムーズにいくことがありません。

しかし、本人は自分のそういう我とか、あるいは慢心している自分とか、さらに最悪になると怠っている自分というものに気づきません。自分はこんなに一生懸命に頑張っていると言います。これでは、ありのままの自分にならないほうが、よかったとなってしまいますね。ありのままの自分というのを、本当の素直な自分という意味にするには、この、我と慢心と怠りが災いします。

禅の修養と似てる部分とは

ワールドメイトでは、禅に関するお話なども、ときどきされます。とくに禅の修行をするわけではありませんが、そのエッセンスを知ることは、大いに役に立ちます。巨人軍のV9を率いた川上監督や、経営者では稲盛和夫、海外では格闘家のヒクソン・グレイシーやスティーブ・ジョブズなど、多くの著名人が、禅に傾倒しています。

ちなみに、禅は、発祥はインドで、中国を経て今のような禅になって日本に渡ってきましたが、今ではインドはおろか、中国にも禅宗を伝えるところは残っていません。日本において、その命脈を保っているのみです。その禅宗も、昔の伝説的な中国の禅僧のような方が、今、日本にいるのかどうかはわかりません。なので、昔の中国の禅の修行の話になってしまいますが、そこでは、仏法の真髄を求めてきた修行者に、皿洗いや掃除などを何年もさせます。こんなことやって何になるんだろうという、そんなことも考えなくなるまで続くようです。悟りたいとか、真髄を得たいとか、そんな色気もなくなって、ご飯が終わったらなにも意識せずとも、無意識に皿を洗っているという境地になるまでです。

それができるようになると、つぎは便所の掃除をしようというように、また違う形で修行がすすんでいくようです。違うと言っても、生活の中でのことであり、似たり寄ったりのような感じもしますが、ともかくそうやっていくうちに、だんだん我と慢心もとれて、素直な自分というものになっていくのかもしれません。

この素直というのも、自分の中の御霊、禅宗でいうと御本霊というのでしょうけど、それを素の状態といい、その状態で物事を受け止めていけば、スーと入っていくし、気分もスーとします。それが本当の意味での素直なのだそうです。臨済録を読むと、その中で臨済禅師が「赤肉団(しゃくにくだん)上に一無位の真人有って、常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ」と弟子に迫る部分があります。この一無位の真人を別な表現では「御本霊」とか「主人公」と言ってますが、そうやって臨済は問答によって、弟子の素直な自分を引き出そうとしていたのでしょう。鬼気迫る命がけのものを感じます。今は、そこまでできる僧侶がいるかどうか知りませんが、私なんかは、とても耐えれそうにない気がしますね。

川上哲治は、禅に関する著作まで書いてるほど、剣禅一如ならぬ、球禅一如のような人ですが、守っているときに、ここに球が来たら獲って一塁にどういう風に投げようかとか、先のことを考えると、捕球できなくなることがあったそうです。心がそれにとらわれてしまうと、それ以外の球に対して自然な動作ができなくなるのかもしれません。あるいは、剣の達人には隙がないと言いますが、相手がこう来るだろうとか、どこかに心を着すのではなく、すべてに意識を置いているそうです。だから隙がないそうです。そのように心に余計なものがないから、すべてを見ることができるのでしょう。

どうやったら本当の知恵が出るか

深見先生は、大学卒業後、建築会社に就職したあと、たちまちその会社全体でトップセールスマンになるほどの、若くして素晴らしい知恵と才能を持たれていましたが、その会社を辞めて植松愛子先生のところに来たときは、1年間、洗い物と掃除ばかりしていたそうです。ワールドメイトで聞いた話では、自慢ではないけども、お皿を割ったことはないと言われていました。もし、考え事に気を取られたりすると、1枚や2枚は、すぐに割ってしまっていたでしょう。でも、もうある程度修行ができていたからそういう雑念もなく、修行も短期間で済んだのでしょうけど、そのときに、それまでにいろいろ本で読んだり勉強したことを、頭からぬぐい去られたそうです。拭い去ると言っても、せっかく学んだ知識の記憶を消すわけではなく、分別の知恵を無くすことだったそうです。

分別はもちろん大事なものであり、なくてはならないのものですが、普通に常識的な人生をおくるだけならいいとしても、深見先生には、だれもできないことをやる使命があるわけで、神人合一することが必要です。それには、普通に学んできたこと、そこからくる顕在意識の知恵や、頭で考えた観念の世界を超えなければいけません。つまり、その奥に本当の知恵があるからだそうです。それを御魂とか、潜在意識とか、陽明学では良知と呼ぶそうですが、人間の知恵を超えた神の知恵とでも言えばいいのでしょうか、そういう世界があるそうです。それを出すための、分別の知恵を無くす修行だったわけです。臨済禅師も、そういう弟子の分別の知恵を叩き割るために、あのような激しい問答を行っていたのでしょう。禅の座禅なども、そういうところがテーマのようです。それを、ワールドメイトの教えで、生活の中にすべてがあると言ってるわけです。

それともう一つ大事なことは、ワールドメイトには、最も尊い最高のスの神様は、住まいにいらっしゃるという教えがあります。そんな遥か遠くにいらっしゃるのではなく、それぞれの住まいにいらっしゃる。スが坐す居場所なのですまいなんですね。これは言葉遊びではありませんよ。だから、家をきれいにすることは、そういう意味からも、とても大事なことなのでした。神社に行けばわかりますが、神様はきれいなところが大好きで、ふだんからゴチャゴチャした神社とかあまりないですよね。

生活の知恵がある人は仕事もできる

それから、そういう生活の中に全てがあるという教えは、生活の知恵がない人は、何をやってもダメですよということにつながります。たとえば、家の掃除や整理整頓が上手にできない人は、仕事の能力も今ひとつのことが多いようです。ワールドメイトでたまに話される洗濯に関するお話で、必ず洗濯を夕方に行い、夜干す女性がいたそうです。私も独身時代を思うとドキッとしますが、なんでお昼の太陽が出ている時に洗濯をしないのと注意されたそうです。昼間働いていて家にいないのならともかく、家にいるのに夜に洗濯するというのは、たしかに合理的とは思えません。そういう人が仕事をすると、往々にして、今すぐやるべきことを脇に置いて、後でもいいことを今したりするそうです。要は頓珍漢なわけですね。

あるいは会社や職場においても、優良な企業は、きちっと整理整頓ができているといいます。「カイゼン」で有名なトヨタの工場などは、その典型ですね。単純に散らかってるだけでも、どこに何があるかわからなくなって、それだけで非効率な仕事になりますが、トヨタなどの優良企業の工場は、整理整頓するのも、ただきれいに収納するだけでなく、使い勝手のよい、段取り良く、効率の良い仕事ができるような整理整頓が細かく工夫されています。そういう細かいことの積み重ねが、大きな仕事の差となってくるのでしょう。

例外として、物書きの人の机の上は、雑然としていた方が筆が進むそうですが、それでも書籍とか資料とかは、きちんと整理されているでしょう。そういうことから、生活の知恵がある人は、ビジネスにおいても、とても有能な人になるわけですね。ワールドメイトの支部でも、この人は仕事ができる人だなと思った人は、片ずけもあっという間に完璧にやるし、料理を作らせても作るのが早くて美味しくて、片ずけも早いです。それは、何度も思いました。深見先生からして、ワールドメイト会員200人分の料理をつくるなどされますが、手際が良くて、美味しい料理を大量に短時間で作られます。あれを見てると、簡単そうにされていますが、実際に自分でやれば、あんなにスイスイできるはずがありません。絶対に無理でしょう。神業だと思います。そう、生活の知恵も究極まで鍛えられた人の仕事は、神業のように見えるのではないかと思います。しかも、深見先生の場合は、そういうジャンルが、いくつもいくつもあるのですから驚きます。

料理

神人合一といっても、何か高尚なお話ができたり、深遠なことを悟っていても、それを神人合一とはいいません。ワールドメイトでいう神人合一するとは、まるで神技のようにできて、しかもそれが何においてもできるという、万能の人にならなければ、その神人合一は高いレベルの本物とは言えないでしょう。その基礎とは、整理整頓にあり、そこからいかに段取り良く、素早く、ポイントを押さえて、無駄なく、生活の中で実践活用していくのかにかかってきます。それが完璧になると神技となり、人知を超えた神の叡智に直結した状態にまで高められていくそうです。それは、そんな簡単なものではありませんが、また、言葉で説明することも、到底できるものではありませんが、少しでも、そのさわりを感じてもらえたら書いた甲斐もあったのかなと思います。

最後に、さきほども少し触れたように、スの神様に来ていただこう、また守護霊さんに来ていただこうと、そんな気持ちで、ワールドメイト会員の多くは掃除をしていると思います。ただ普通に、掃除のおばさんや業者のように掃除をするともったいないのです。神様を迎える気持ちですると、霊光が輝いて、神気が凝結し、同時に、変な邪気も寄ってこなくなるそうです。いくら神様を信仰していても、お祈りをしても、お布施をしても、それができてないと神様もこないし悪いものが来ることになってしまうのです。それから深見先生は、頭がこんがらがってきてどうしたらいいかわからなくなると、おもむろに掃除をしたり整理をしたり、また、料理を作ったり、とにかく体を動かすそうです。すると頭もスッキリするし、ビシッとなると言われていました。

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