ワールドメイトにおける深見先生のお話で、もっとも印象に残っている話のひとつが、「人間としてもっとも尊い心は義の心」というお話です。論語にも、「義を見てせざるは勇なきなり」と言う言葉があります。孟子にも、「仁は人の心であり、義は人の道である」とあります。2000年以上前から、人の大切な徳目として「義」は存在していました。
日本おいても、武士道では「義」の精神というものが尊ばれていました。意味は、「打算や損得ではない、人間としての良心にかなった精神」というところでしょうか。ちなみに「大辞林」によると、「人のおこないが道徳・倫理にかなっていること」とあります。
フェア精神で戦うスポーツも、ある意味ではこの「義を貫く」ものといえるかもしれません。最近は、「道義的に卑怯なことをしてでも勝てば良い」みたいな選手もいますね。薬物使用、過度なラフプレーなど、見ていてがっかりさせます。世間では、不義理や不正からくる争い、事件などが後を絶ちません。また、あたりまえとされる社会の義務すらも、守らない人が増えています。「義の心」を教える教育や教えも、今やまったくといっていいほど廃れてしまってます。
おそらくは「義の心」といっても、今の若い人にとっては、なじみが薄いものでしょう。そのような現状をみると、ワールドメイト会員はつくづく恵まれていると感じます。たびたび「義の心」の大切さについて、深見先生がわかりやすい例えで教えて下さるからです。「義の心」もいろいろな角度がありますから、それをひとつひとつ学べるワールドメイトは貴重なところなのです。
そのたくさんの教えの中に、「楽しくなくても、面白くなくても、興味が無くても、やる気が出なくても、意義を見出さなくても、それでも成さんがためにやるのが義の心なのです」というものがありました。この深見先生のお話をはじめて聞いた時、私をはじめ参加していたワールドメイト会員は、皆はっと目が覚めた気がしたものです。
その具体的な意味をみじかな事柄でいうと、たとえばお葬式は、別に面白いわけでも、楽しいわけでなくても、生前の恩義を感じて参加したりします。逆にいうと参加しなければ、義理人情を知らない、不義理なやつだといわれかねないでしょう。
ワールドメイトで言えば、日本の将来を案じて祈ろうとする時、その重要性はわかっていても、なんとなく日常の細々したことで神経すり減らして生活していると、いまひとつやる気が出なくなることがあります。それでやる気が出ないからといってパスすれば、それは果たして、義の心があるといえるのかどうか? もちろんワールドメイトは、参加も不参加も自由なので、なんの義務もありません。でも、これが自分や家族の命に直接関わることなら、やる気が出ようが出るまいが必死になるかもしれませんが、切迫してなければやる気がしない、興味がわかない、意義を見出せない、などの理由で、せっかく神様が許して下さったお祭りでも、平気でスルーしてしまうものです。それでも神様は罰をくだすなんてことはされませんので、義の心も忘れたままになるのです。
そんなとき、「義の心」のお話を思い出すと、有形無形のうちに守って下さっている神様に対し、その神様の人々を救いたいという思いに対し、義理を欠いてることに気がつくのでした。そこで反省し、このように御祭りがあることに感謝して参加すると、その瞬間にとても温かい気持ちになり幸せを感じるのでした。 心の隙に巣食う、邪なるものが消えたのかもしれません。
ワールドメイトの深見先生の教えには、このように単に頭で納得するのみではなく、内面性をも変えていき、幸せにする力に満ちていますが、ここで私が紹介しても伝わるものではないので、直に話を聞くのがベストでしょう。私の文章力、表現力の無さもありますが、以心伝心のうちに伝わるものが大きいと思うからです。
やはりそのような教えは、深見先生と言う類い稀な方の存在があって、はじめて真実の内容が伝わり、それを聞いた人たちも救われていくのかもしれません。心底そのことを実践してきた深見先生だからこそ、また、深い学問の咀嚼力を持たれている深見先生だからこそ、伝えられるものなのでしょう。ワールドメイトに出会えたことに、あらためて感謝する次第です。