これまでの人生で何度か、なんと理不尽な、と思うような体験をしたことがあります。
ところが数年経つと、それは理不尽どころか、実は幸せにつながることだったのだと気が付きました。
実は幸せにつながることは、一見すると不幸なことに見えたり、理不尽だなと思えるような姿でやってくるのかと思うようになりました。
思うに、何がその人にとって良いことなのか、幸せにつながるのかは、自分ではわからないことが多いです。そのような体験を持つ人も、けっこういるのではないかと思います。
自分の願っている職につけないとか、好きな人とはどうしてもお付き合いまでいかないとか、今の環境が気に入っているのに好まない部署に転勤になってしまったとか、人にはいろんな悩みがあるものです。
もっと努力をすれば、良い結果になるのかもしれませんが、努力を超えたところで、理不尽な状況になることもあります。
僕の場合、たびたび起きていました。最初はなぜこんなことになるのだろうと思うのですが、ところが、結果的にそのことがあったために、その後の人生が開けたり、煩いごとが解決に向かったり、思わぬ方向に能力が伸びていったりしました。
何度もそんなことがあると、これは神様がそのようにしてくださっているとしか思えなくなってきますね。自分で望んで努力したから、そのような良い結果になったとは、どうしても思えなかったからです。
もちろんそうなるためには、大事なポイントもあります。ワールドメイトで深見東州先生が何度も話されることですが、儒教の「中庸」に書かれている「君子はその位に素して行い、その他を願わず」というのがミソだと思います。
今の境遇や立場に満足して、それ以上のことを願わないという、単純なことを言いたいのではありません。また最近は、人は人だから、自分は自分なんだし、自分らしく生きようということを言う人も増えました。人の立場や境遇を観て、羨ましく思ったりする必要はないし、自分には自分のやりたいことがあるはずだから、それを見つけて幸せになるのだと。
たしかにそのような人生観も、良いとは思いますが、ここで言いたいのは、今現在の置かれている状況の中で、目一杯生きていこうと言うことです。
たとえば、もし望まない職にしかつけなかったり、嫌な部署に転勤になったりした場合に、本当はこんな仕事がしたい。今の仕事は嫌だから全力で頑張る気がしないとするなら、それはもったいないことです。
深見東州先生が言われるには、たとえば後に天下を取る木下藤吉郎のケースで言うならば、草履とりの役割を与えられたから、草履取りとして一生懸命働き、日本一の草履取りになろうと思って頑張ったのでしょうと。はじめから天下を取ろうと思って、信長公の草履を懐に入れて温めたのではないわけですね。
好き嫌い関係なく、目の前に与えられた環境で全力を尽くす。そのような気持ちでいるから、寒い日に、誰もおもいつかなかった懐に入れて草履を温めるという発想も出てくるのでしょう。そして信長公にも引き立てられていきます。
そのような話をワールドメイトで聞いていたので、僕も理不尽だなと思えることがおきたとしても、それはそれで、その状況や環境の中で精一杯やってみようと前向きに考えることにしました。そして数年経つと、あのとき理不尽だ、どうしてこんなことが起きるのかと思ったことが、実は自分自身にとって良いことばかりの結果になっていることに気がつかされるのでした。
でも、その時は気が付きません。悪いことや不幸のように思えたことが、実は良いことなのだということには。それで腐らずにその状況で全力を尽くしていくうちに、本当は幸せになるためのものだったことに気がつくわけです。
具体的な自分自身の体験については触れませんが、ワールドメイトに入会してから何度も僕が体験したことでした。その中でもっとも大きなことを一つだけ書くと、それは両親との関係です。以前、別な記事で書きましたが、新興宗教に理解がない両親でしたので、僕がワールドメイトに入会して活動を始めると、やがて両親との関係に大きな葛藤が生じます。
それは僕も両親も望んだことではありませんでしたが、しかしそのことが僕にとっては幸運につながります。親は事業をしていて、僕は両親の敷いたレールのままに事業を引き継ぐ予定でした。その時代はそれなりに裕福な暮らしができたかもしれませんが、ワールドメイトのことがきっかけで、跡を継ぐ話は無くなり僕は家を出ます。
それが両親にとっては子離れ、僕にとっては親離れを促す結果となり、その後は苦労をしながらも己で決めた、本当に後悔のない自分の人生を歩む結果につながります。そして親の事業は時代の流れによって淘汰されていきましたので、結果として跡を継がないことが正解だったことは、20年後になってはっきりと理解できました。
また、同時に両親との関係も、あることがきっかけで、全く別な形で良い関係に戻ります。その時に僕は気がつきました。あの時、親子関係が不幸になったように思えたことが、結果として、ことごとく僕にとっても、両親にとっても良い結果にしかならなかったことを。幸福な人生になるために起きたことだったことを悟ったのでした。