プラシド・ドミンゴを超一流にした、マルタ夫人の影の働き

ホセ=プラシド・ドミンゴは、1941年1月21日、マドリードの生まれですから、第2次世界大戦の真っ只中に生まれています。スペインは、その直前の1939年まで、第2次世界大戦の前哨戦といわれる内戦が続いていて、大変な時代に一区切りがついたばかりでした。しかしその後もフランコ独裁政権が続き、欧州は世界大戦に突入します。スペインはドイツなど枢軸国寄りで、参戦こそしなかったのですが、経済的には困窮した時代だったそうです。

ドミンゴの両親は、スペイン独特のロマンティックな軽いミュージカル、サルスエラの有名なスターだったそうです。そのせいか、ドミンゴの幼少時代は、幸せな家庭生活だったということです。ただ戦後、1946年から両親が、長期の南米ツアーに出たため、妹とともにマドリードに残っていたそうです。そしてツアーが大成功に終わると、特に熱狂的に迎えられたメキシコで、両親はサルスエラの一座を結成し、そこに腰を落ち着けることになります。そして1949年、ドミンゴは8歳の時に両親の元に移住し、以後、少年時代をメキシコで過ごすことになったのです。

ドミンゴはそこで、音楽に対する旺盛な好奇心と愛、明るい社交性、疲れを知らない体力など、のちのプラシド・ドミンゴを形成していく元が培われたようです。特に母親からの影響が大きかったそうです。国立音楽院に進み、そのころはビアニストとして入学したそうですが、声楽のレッスンも受け、指揮の指導もうけます。実は16歳で一度結婚をしますが、これは長く続きませんでした。そして18歳でメキシコ国立オペラのオーディションを受け、そこでバリトンではなく君はテナーだと言われ、いきなり初見でテノールのアリアを歌うのですが、なんとか正式契約にこぎつけます。そして1959年に準主役でデビュー、1961年には主役を歌い、さらにジョーン・サザーランドやバスティアニーニらと共演し、国際舞台にもデビューを果たします。そして交際中の天才的なソプラノ歌手と言われたマルタにプロボーズし、結婚します。二人は共演もし、ドミンゴは、そのころが人生で一番幸せな時期だったと懐かしんでいるとか。
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17歳のドミンゴ

しかしメキシコにいては、将来の成功も成長する機会も少ないということで、テルアヴィルのヘブライ国立オペラから半年間の大きな役が転がり込んだのを機に、イスラエルに行くことにしました。結局は、そこに2年半いることになるのですが、そこのオペラ監督が強烈な個性と激しい気性の女性で、かなり安い出演料で、280回も出演することになります。そして50以上のオベラの役を覚えたということですから、その厳しい監督のおかげで、一生かかってやるようなことを、短期間でやったことになります。ドミンゴは、日に何度も、「いつかはこの人のことをありがたく思い出すことになるのだから」と言い聞かせていたそうです。ワールドメイトでいえば、深見先生のお父様か、あるいは、ベートーヴェンのお父さんのような、無茶苦茶な厳しさでドミンゴを鍛える役割だったのでしょう。

そしてもう一人、ここで大事な役割を果たすのが妻のマルタでした。ここでのマルタの指導により、ドミンゴは現在の呼吸法と横隔膜の支持法を習得し、来る前よりもはるかに上達した歌手になることができたそうです。そしてテルアヴィルにいる時に、ニューヨーク・シティ・オペラのオーデションを受け、高く評価されていたドミンゴは、1965年ニューヨークでデビューを果たし、さらに1966年ニューヨーク・シティ・オペラがリンカーンセンターに本拠地を移した時の舞台で大成功を収め、そこから1967年のハンブルグ州立歌劇場でのヨーロッバデビューにつながります。それ以後は、前回書いた通りに、同じ1967年にウィーン国立歌劇場で、また、メトロボリタン歌劇場でもデビューを果たします。1969年にはスカラ座、1971年にはコベント・ガーデンデビューというように、大陸をまたにかけて出演が続き、スターダムを駆け上り、欧米の主要な歌劇場で最も高い評価を受ける歌手の仲間入りを果たしていくのでした。

そしてその間には二人の子供ができ、マルタ夫人は自分自身の歌手のキャリアをあきらめ、育児とドミンゴの活動を支えることに徹していきます。マルタ夫人は、母として妻として献身的な女性でしたが、同時にドミンゴに対し、誠実ではっきりという批評家でもありました。マルタ夫人は、音を聞き分ける優れた耳を持っていて、発声についても深い理解があり、技術も演出技法もあり、鋭い鑑識眼をそなえていました。ドミンゴも、彼女のアドバイスには一目置いており、「マルタは何から何まで、本当によく知っているのです。歌も演技も、舞台美術も。私は彼女の言うことを全面的に信頼しています。それに私の演技に関しては、思ったことをズバリ言うのですよ、本当に」と述べています。それくらい尊敬し、信頼しているのでしょう。ワールドメイトの植松愛子先生と深見先生の関係に似てるとこがあると、一瞬思ってしまいました。ドミンゴの成功の影に、マルタ夫人の働きがあるというのは、どんなに高く評価しても、しすぎることはないそうです。ドミンゴも、彼ほど自分の成功を、夫人のおかげだと言い続ける人もいないと言われているそうです。

 

それから、これもドミンゴの大事なエピソードになりますが、ワールドメイト会員にとって、いや、日本人全員にとって忘れることのできない出来事といえば、3.11東日本大震災がすぐに思い浮かびます。あの震災の直後は、海外からくる音楽家の多くがキャンセルをしましたが、プラシド・ドミンゴは、進んで日本に行きたいと述べ、そして来てくれました。震災に遭遇して元気を失っている日本の人々の、すこしでも慰めになればという温かい気持ちに溢れていたのでしょう。これは、人の世の痛みや悲しみを経験していないと、できない行動のように思えます。

実は、ブラシド・ドミンゴに関して語る時、忘れてならないのが1985年9月にメキシコを襲ったM8の大地震のことです。この地震により、メキシコシティーは大きな被害を受け、数千人が亡くなります。この街は、ドミンゴが幸せな少年時代を送ったところでした。ここでドミンゴは、両親をはじめ、叔母や叔父、いとこたちと大家族で暮らしていたそうです。プロとしての初舞台を踏んだのもここで、結婚し子供を産んだのもここでした。そしてこの地震が起きた時、両親や親戚は、その街にいたのです。
ドミンゴがメキシコの大地震の知らせを受けたのは、シカゴでオテロのリハーサルをやっているときでした。そして家族から知らせが届いた時、親戚もいとこも、その子供も行方不明というものでした。ドミンゴは、ドミンゴなしでは考えられない大事な公演の前でしたが、メキシコに行く許可を求め、そして寛大にも認めてもらうことができて現地に向かったそうです。

幸い両親は、すこし離れたところにいたため、無事でした。しかし大切ないとこ夫婦と叔父叔母の消息はつかめません。そんな中、いとこの妻だけが瓦礫の中から救出されたという知らせを受けると、ドミンゴはそのアバートにかけつけ、バンケーキのように潰れてしまったビルの瓦礫をシャベルで掘り続けたそうです。その苦痛に満ちた表情で掘り続ける姿は、テレビでも放映されたそうです。

結局、いとことその子供、そして叔父、叔母はのちに遺体で発見されます。ドミンゴは、その後オベラを半年間もキャンセルし、大好きだった人たちを追悼します。そして歌うのは、メキシコシティー援助基金のチャリティ・コンサートだけだったそうです。ドミンゴは、のちにメキシコを離れた後にも、ヨーロッパとアメリカでコンサートを開き、その収益をメキシコシティーの再建と被害者の援助のために寄付をします。ドミンゴにとってははじめにして最大の悲劇との遭遇だったのでしょう。それ以後は、けっしてそのことを口にしなくなったそうですが、みじかな人は、ドミンゴはあの時のことを絶対に忘れていないというそうです。そして、ドミンゴは、それ以後、別な人間になったかと言われるほど変わったのだそうです。

ワールドメイトでも、3.11のあとは、何かが変わったという声を聞きます。マスコミもそういうことを書いています。人間は、天変地異に遭い、その悲劇を目の当たりにすると、人が変わるほどの影響を受けるのかもしれません。実は、この1985年は、プラシド・ドミンゴが真のスーバースターへの道を歩み始めた年でもありました。この年の2月、ドミンゴは第27回グラミー賞に出席します。ドミンゴのオベラ映画「カルメン」のサウンドトラックが、最優秀オペラ録音賞を取ったからです。グラミー賞の舞台である、その夜のシュライン劇場には、マイケル・ジャクソン、プルース・スプリングスティーン、ティナ・ターナー、プリンスらに混じって、馴染みのない顔、そう、クラシック界の大スター、プラシド・ドミンゴの姿があり、この日、ポッブ文化の世界にとびこもうとしていたのでした。

ちょうど、ジョン・デンバーとのボップ・デュエットアルバムを出したばかりであり、バーブラ・ストライザンドとのデュエットの話も出ていて、ハリウッドに顔が広がろうとしていたタイミングでした。普段のグラミー賞ならば、クラシック音楽の受賞者が、舞台に上がることはめったにないそうです。ましてや、その後開かれるレコード会社のお偉方が主催するパーティーにも招かれることはないそうですが、この年は違ったのです。

そして、ロックやボップス界のスーバースターが次々と登場する中、ドミンゴは生放送でステージに上がり、そのかっこいいカリスマ性を持つ姿を、ロックやソウル、カントリー、ブルースファンまでが、はっきりと意識し、そこにスター性を感じたと言われています。

さらにその一ヶ月後、今度はハリウッドのアカデミー賞授賞式のプレゼンターを務めることになります。それだけでもすごいことですが、身内だけの集いであり、ハリウッドの名士と特に輝いたスターだけで開かれるオスカーバーティにも招待されます。ドミンゴが赤い絨毯を歩く時、「世界最高のオベラ歌手、プラシド・ドミンゴ」と紹介され、観覧席の女性たちは全員が叫んだり口笛を吹いたりの大騒ぎになったと言います。クラシック界では、考えられないことです。このときドミンゴは、真のスーバースターになった実感を持ったでしょう。ただし、その後、ドミンゴはゼッフィレッリ監督の映画に出演するなど、映画スターへの道が開かれると見えましたが、ハリウッドの大スターになることはありませんでした。しかし3大テノール・コンサートの人気爆発によって、ハリウッドの大スターと同じレベルの大スターになっていくのでした。

ワールドメイトで、いろいろなスーバースターの話を聞く機会がありましたが、栄光に包まれた人生のように見える人でも、その栄光に匹敵するだけの苦しみや葛藤を、人の知らないところで経験していることも感じていました。あらゆる名誉と賛美を受けてきたドミンゴも、やはりそうだったのでしょうね。

 

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