深見東州先生による、ブラインドゴルフの支援活動からの続きになります。
世界の超一流プロゴルファーとの出会いが、ブラインドゴルフの普及に貢献
2014年に行われたIBGA世界ブラインドゴルフ選手権大会では、IBGA新会長のシェリダン氏が、「ドクター・ハンダとロン・アンダーソンさんの出会いから、世界のブラインドゴルフの歴史が始まった。ドクター・ハンダが協会を作り、今日まで尽くした功績は計り知れない。」と讃えられたそうです。
IBGA関係者や、世界のブラインドゴルファーは、深見東州 (半田晴久) 先生のことをドクター・ハンダと呼ぶそうですが、どこの国の主催者も、冒頭の挨拶の時に、必ずドクター・ハンダへの感謝と敬意の言葉を繰り返し述べるのだそうです。
その話を世界の多くの大会に参加してきた日本のプラインドゴルファーの手記から知ったとき、ワールドメイト会員が、深見東州先生のことを尊敬し、心から大好きであることと同じ気持ちなのだなと思いました。
世界中の多くの人に心から愛される理由は、深見東州先生の愛の大きさ、本当の優しさを、触れ合った人みんなが実感するからでしょう。ワールドメイト会員だけでなく、深見東州 (半田晴久) 先生とおつき合いをされた人は、みんな先生のことを大好きになってしまうのだろうと思います。
話を元に戻しますが、日本盲人ゴルフ振興協会は2000年に特定非営利活動法人(NPO法人)に認証され、2004年には現在の「日本ブラインドゴルフ振興協会」に改称しました。ここからは、ブラインドゴルフと並行し、あるいは融合しながら、シニアゴルフにも活動が広がっていきます。その前に、もう一つ大事なことを書ききれてなかったので書いておきます。
ゴルフの世界的なトッププレイヤーの中には、熱心な慈善活動家もいます。たとえば、マスターズ、全英オープンのチャンピオンにそれぞれ3度輝いたニック・ファルドは、イングランド・ブラインドゴルフ協会をバックアップしているそうです。
また、全米オープンなどメジャーで3勝あげながらも、絶頂時の1999年に不慮の事故で亡くなるペイン・スチュアートは、全米ブラインドゴルフ協会をバックアップしていたそうです。そしてレギュラーで日本、アジア、豪州などで28勝を挙げたテリー・ゲールは、オーストラリア・ブラインドゴルフ協会をバックアップしているそうです。
テリー・ゲール氏とは、ロン・アンダーソン氏の協力により知遇を得、当時日本のブラインドゴルフの大会などにおいて、直に日本のブラインドゴルファーの指導を何度もしてくれたそうです。それがどれだけブラインドゴルファーの励みになったのかは、いうまでもないでしょう。そのように、世界のトッププロの中には、献身的な慈善活動をする人が何人もいるようです。彼らと協力し接することにより、ブラインドゴルフの普及にも、はかりしれないほどプラスの影響がもたらされたのでしょう。
このあと紹介しますが、世界の超一流女子プロとブラインドゴルファーとの夢のラウンドを、深見東州 (半田晴久) 先生は世界で初めて実現されます。その開催が決まったとき、世界の加盟各国・各地域のプラインドゴルファーの間にパニック的な感動が走ったそうです。 そして、どうやったら参加できるのかという問い合わせが殺到したそうです。
それはそうでしょう。シニアになったといっても、世界的な錚々たるスーパースターだった人たちが勢揃いしてます。テニスで言えばクリス・エバートやナブラチロワ、シュティグラフといっしょにテニスをするくらいステータスなことでしょう。そういう意味でシニアゴルフとの出会いは、違った角度からブラインドゴルフの普及に大きな貢献を果たしてきたと言えるでしょう。
日米のシニアゴルフの交流が、ゴルフの社会貢献にとって、今一番必要とされる
2003年4月、JBGA(日本ブラインドゴルフ振興協会)創立15周年記念ブラインドゴルフ・ジャパン・ツアー関西大会が、兵庫県・社団法人神戸ゴルフ倶楽部六甲山ゴルフ場で開催されました。神戸ゴルフ倶楽部は日本最古のゴルフ場ですが、あるイギリス人が社会に貢献できることはないだろうか、と思って設立したそうです。そして、この神戸の地にイギリスのゴルフ文化が根ずき、日本のゴルフ界の草創期を築いたゴルファーが多く誕生したという、そんな由緒あるゴルフ場なのです。
その神戸ゴルフ倶楽部が100周年を記して、ブラインドゴルフに対し、全面的な協力をはじめたのでした。そのとき深見東州先生は、神戸ゴルフ倶楽部の方から、「最初の100年はゴルフの普及でした。次の100年は、ゴルフの社会貢献を」という話を聞かれ、いたく感銘を受けられます。そして、ブラインドゴルフだけでなく、ゴルフの社会貢献の道を模索され始めます。
そんな頃、日本ブラインドゴルフ振興協会に強力な味方が現れます。稲葉真寿美プロです。稲葉プロは、JBGAの活動と半田名誉会長の活躍に感銘を受け、ブラインドゴルフの活動に参加しはじめます。JGBA所属第1号プロとなり、レッスンだけでなく精神面や体力面もふくめたケアにも取り組み、ゴルフを通じて培ってきたすべてをブラインドゴルファーのために役立てたいと努力されています。
そんな稲葉プロから、女子プロゴルフ界の実情を聞かれた深見東州先生は、なかでも女子シニアプロの厳しい現実を知ります。45歳から女子シニアプロになれますが、当時は女子シニアの公式戦が、世界でアメリカにしかなかったそうです。
だからといってレギュラーツアーで戦うには、当時、宮里藍、横峯さくら、諸見里しのぶらの若手の台頭があり、あるいは不動裕里、福島晶子など、パワーゴルフ全盛の時代であり、同じステージでしのぎを削るだけの体力を保つのは非常に困難が大きかったようです。
日本女子プロゴルフ協会600人のプロのうちの半数がシニアですが、レギュラーで活躍できるのはほんの一握りの選手でした。かといってレッスンプロ、ティーチングプロの道は、ほぼ男性の独壇場です。女子シニアプロの現状は、なかなか厳しいのものだったそうです。
それを知った深見東州先生は、「もしもアメリカのシニアツアーと一緒にできるとすればどうか」と稲葉プロに聞き、アメリカの米国女子シニアゴルフ協会(WSGA)のジェーン・ブラロック会長に、真正面から情熱を持ってぶつかっていかれます。
ワールドメイト会員は、どんな大物にも真正面からあたっていくやり方で、難しい交渉を奇跡的に成功させてこられた深見先生を知っています。このときも、その一つであったのでしょう。
アメリカのゴルフ界は、いうまでもなく世界最高の舞台であり、世界から強豪が参戦し、最強をかけてしのぎを削っています。そしてシニアゴルフは男子は大盛況でした。しかし女子に関しては、日本とはまったく比較にならないにしても、当時年間3試合だけで、やはり寂しい状況ではあったそうです。
深見東州先生は、米国女子シニアツアーを支援し、活動を活発化させ、日米のシニアゴルフの交流を図ることは双方にメリットが大きく、ゴルフの社会貢献を考えるときに今一番必要とされているかもしれないと考えたそうです。そして米国女子シニアゴルフ協会(WSGA)のジェーン・ブラロック会長と面談し、日米のシニアが中心となって「ワールドシニアゴルフ レディースオープン選手権」の開催を提案し、協力の意向を得ます。
さらに日本に帰って、日本女子プロゴルフ協会(JLPGA)に接触し、全面的な賛同を得て、開催に向かって着実に動き始めます。そしてついに2005年4月9日、10日に開催の運びとなります。開催が決まるまで知らなかったワールドメイト会員も、みんな驚いていたのを思い出します。なにしろその参加メンバーが豪華だったからです。