参考までに深見東州先生の、「私の考える福祉」の続きを載せておきます。ワールドメイトでも、随分前からこの福祉に対する考え方を聞いていました。
第二に『民間がやるべき福祉とは何か』ということです。私たち民間人が行う福祉の規模は、決して大きくはありません。アフリカ問題などは、大きすぎて私の身の丈には合わず、今のところ官公庁にお任せするほかありません。あるいは、その大問題を小さく別けて、自分に合ったものをやる縁やチャンスにまだめぐり合わないのです。つまり、民間の福祉が効を奏する条件は、規模が大きすぎず、その成果を目の当たりにでき、しかもそれがユニークなものであるということです。すなわち、福祉を行うことの喜びを、身をもって感じられる事が大切だと考えているのです。そうでなければ、決して永続きはしません。また、ユニークな民間の福祉活動が永続きし、大きな成果が上がったら、はじめて官公庁が動いて大規模な活動になります。これが民間の福祉活動の役割ではないかと思います。
第三に『福祉を通じて心の交流をする』という点です。福祉とは、決してお金だけ出して終わりというものではありません。私は必ずその場に赴いて、人々や子どもたちの手を取り、ともに歌を歌い、触れ合うことで心の交流を図っています。心の通う福祉こそが、本当に生きた福祉だと思うからです。こうして、肌の色や国籍、宗教などの違いを超えて、心のこもった助け合いを実現することが、私が福祉実践家として一番心掛けていることです。以上の三つが、私の行う福祉活動の原点であり、理念でもあるのです。
ということで、ここで話は前々回へともどります。近年パラリンピックは競技スポーツとしての側面がクローズアップされ、競技性が高まってきたことを書きました。それにつれて「福祉」ではなく「スポーツ文化」としての理解と支援を求める声が、世界的に強まっているそうです。その努力は徐々に報われているようで、パラリンピックは身体に障害のある選手達が「世界最高水準の技術とスピードを競い合う国際競技大会」というように、今や世界で認識されつつあるようです。
一方、スペシャルオリンピックスは、参加者みんなにメダルの可能性があるように工夫されているそうです。スペシャルオリンピックスの競技会では、可能な限り同程度の能力をもつ人で競えるように、性別、年齢、競技能力などによってグループ分けが行われるそうです。誰でも平等に競い合うチャンスが与えられるわけです。それによって能力を十分に発揮し、一番輝く機会を得られると考えるそうです。また、表彰台の上では全てのアスリートにメダルやリボンがかけられ、順位だけでなく、最後まで競技をやり終えた事に対して一人一人に拍手が贈られるそうです。
ということで、パラリンピックとスペシャルオリンピックスは、ともにオリンピックの一部といえますが、社会福祉に重点をおくのか競技性に重点を置くのかで、違いがあるんだなというのがわかりました。これは、どちらかが正しいというのではなく、身体的な障害か、知的障害かの違いからくるのかもしれません。