前回は、深見東州先生による「誠の五段活用」ということで、「わざわざ」「さっそく」「何度も」について書きました。
あとふたつについては、第4番目が「てみやげ持参で」、第5番目は「丁寧な言葉で」となります。この二つは、読んで字のごとくですが、またの機会に説明を書きたいと思います。
それで、この誠の五段活用を実行すると、相手に誠意が伝わり、相手から信用を得られることを、体験をしたことがある人でしたら、よく理解できるのではないかと思います。
それは、神様に対しても同じことが言えるわけですが、なぜそこまで「わざわざ」「さっそく」「何度も」という誠の行為を、神様は最も喜ばれるのでしょうか。他にも、謙虚で、誰にでも親切で優しいとか、神様に喜ばれそうな行為はたくさんあると思いますが、なぜなのでしょう。
それには、神様の世界からみて、人間の行いで最も嫌われる行為を知る必要があります。
神と人とを遠ざける一番の障害
僕は、小学生の低学年の頃、人間って何だろう。命とはなんだろう。死ぬとはどういうこと?という疑問を抱いたことを今でも鮮明に覚えています。
試しに一度死んでみようかな?なんてことまではしませんが、そこから、スピリチュアルなものへの関心が、心の片隅に芽生えていました。その後、いろんなものを読むうちに、どうやら死んでも、魂とか霊と言われるものは肉体が無くなった後も存在し続けるらしいと、気がつきました。
霊の存在は、身近な人の体験や、自分自身の体験からも、間違いないと確信していましたが、人間はなんのために生まれるのだろうという疑問が次に湧いてきました。
それも、自己啓発本を読むうちに、どうやら、立派な人間になる目的で生きているのではないかと、信じるようになりました。では、何をもって立派な人間と定義するのかについては、あやふやでした。とりあえず常識的に、悪いと思われることはやらずに、一生懸命に、前向きに生きていこうという感じでしたね。
そんな感じの思いを持っていたせいか、ワールドメイトに入会したとき、深見東州先生から、人は魂を磨くために生まれてきます、と聞かされたときに、ストンと、抵抗なく受け入れることができたように思います。
しかし魂を磨くという意味は、そう簡単に理解できるような代物ではなく、知れば知るほど、深い意味があることに気がつきます。今回は、そのことに触れると長くなるので触れません。まだわからないことも多いからです。
それでも簡単にいうと、人は精進努力して、進歩向上していくために、生まれかわり死にかわりしていると、漠然としたままで良いので覚えておいてください。
それが神様から見て、人間が肉体を持って生まれてくる真実の意味であるならば、その真逆である、精進しない、怠けてばかりいて進歩も向上もない人生は、神様から見て最も嫌がられる人生ということになるでしょうね。
怠けて何も努力しなければ、向上する要素がほとんどありません。白隠禅師は、何もしないよりは、博打を打つ方がまだマシだ、というような意味のことを言われたと聞きました。
博打は決して良い行いとは思えません。しかし何もしなくてウツラウツラしたり、ボーッとしているくらいなら、博打でハラハラしたり、一喜一憂する方が、すくなくとも一瞬一瞬を懸命に生きていると言えるでしょう。人として良い行いとは思えませんが、何もしないよりは、何か得るもの、心に思うものが得られるかもしれません。それで、そのように言われたのでしょう。
世界に冠たる日本のアニメ
僕は小学校のころ、漫画ばかり見ないで勉強しなさいと言われて育ちました。そのせいか、漫画を読むことへの罪悪感のようなものがどこかにありました。それでも、今でもコミックやアニメを観ることがあります。もちろん、難しい本を読んで勉強することが大事だと思っていますが、活字ばかり読む気にならない日もありますからね。
今は面白いアニメやコミックがたくさんありますし、何もしないでボーとするくらいなら、それを見て感動したり、夢中になる方が、はるかに良いのではないかと思っています。
余談になりますが、深見東州先生も、びっくりするくらい昔の漫画に詳しいです。やはり小学校、中学校と好きでよくご覧になっていたようですね。現在の多彩な歌手としてのルーツも、アニメソングから始まったというくらいのアニメ通です。
その後は、古今東西の万巻の書を読まれるわけですが、今でも若者の心を知るためにアニメを時々ご覧になるそうです。今のように、アニメが日本文化の一つとして世界に認められる前から、日本のコミック・アニメのことを高く評価されていたと思います。
今や世界に冠たる日本のコミック、アニメ業界は、江戸末期に庶民から現われた、浮世絵と同じです。その当時の、文人画家や南画の絵師が、浮世絵画家を見下していたのと同じです。その後、百年経って世界は、どちらをより高い芸術として評価したかです。だから、五十年、百年経ったら、アニメ作家やコミック作家が、ノーベル文学賞を受賞する可能性も、あながち否定できません。
戸渡阿見 短編小説集「蜥蜴」まえがきエッセー
面倒くさいという思いを克服する
そもそも怠け、怠りという行為は何から生じるかというと、いくつかあると思いますが、「とにかく何かやるのが面倒くさい」、という思いから生じると言えます。「そんなことをするのは面倒くさい」、「面倒だし、わざわざする必要ない」ということですね。それが非常に深刻なレベルにまでいくと、もはや、何をするのも面倒くさい気がして、何もする気がしない人になるのかもしれません。
ただし面倒くさいと言って何もしないと、生きていけなくなりますから、イヤイヤながらでも、何かの仕事はするでしょう。それでも面倒くさいという気持ちがなくなったわけではないので、「わざわざ」何かをしようという気持ちにまでは、なかなかならないと思います。
面倒くさいという気持ちが勝ってしまうと、もし「わざわざ」何かをしようという気持ちになることがあっても、結局何もしないで終わると思います。たとえばお世話になった人が入院したので、お見舞いに行った方が良いかなと思っても、遠いしめんどくさい、休みをわざわざ使ってまで行きたくない、お見舞いに行って話すのがめんどくさい・・など、何か理由をつけて、結局は行かなかったとなるかもしれませんね。
ましてや、そこから「さっそく」「何度も」へと、つながることも、もちろんありません。
ここまで書くと、神様が最も嫌いな行為である「怠り」を克服することから、「わざわざ」「さっそく」「何度も」という誠につながることがわかります。「わざわざ」「さっそく」「何度も」という誠の行いを、神様が最も喜ばれるのは、神様が最も嫌いな「怠り」を克服しているからなのでしょう。「神様が最も喜ばれるもの、それが誠です」という深見東州先生の言葉の意味を理解できると思います。