深見東州(半田晴久) 氏の年間イベント一覧
戸渡阿見作短編小説の魅力は  "ものがたり" と "うた" にあり

4月のゴルフトーナメントでは、深見東州先生が団長を務める「明るすぎる劇団・東州」による演劇が上演されました。これまでは浅草公会堂や新国立劇場などで、明るすぎる劇団・東州の公演を何度か見てきましたが、まさか今年、ゴルフ会場で見ることができるとは、予想だにしませんでした。

ただトーナメント終了後の、表彰式前の公演という時間的な制約もあり、やや短縮されたバージョンのようでした。また、演目の合間に行われる、恒例の深見東州団長によるパントマイムも10分ほどでしたので、十分に面白さを味わうにはもう少し時間が欲しかった気もします。それでも多芸多才な深見東州先生の一面を、ゴルフ観戦に来て初めて見る人でも理解できたかもしれません。

サンケイスポーツ2022年5月3日付紙面より

ワールドメイト会員の僕からすると、多芸多才という言葉も、深見東州先生のことを知れば知るほど、色褪せた言葉に思えてしまいますね。オペラ歌手、能楽師、演劇、京劇、バレエと、舞台芸術の世界だけ見ても、それぞれ専門家から評価されていますが、一般的に言われる多芸多才の域をはるかに超えていますから。

実は文芸家としても素晴らしい才能を持たれています。文芸の世界では、主に短編小説や自由詩、俳句の分野で、多くの作品を発表されてきました。ゴルフ場で上演された「明るすぎる劇団・東州」の演目も、オリジナルの短編小説が元になっています。

戸渡阿見というペンネームで発表されてきた3冊の短編小説集を、僕も全て読破しました。数百冊におよぶ著作群の中でも、短編小説集と詩集に関しては、中学生でも楽に読めるようなやさしい文体で書かれています。しかも、いわゆる駄洒落が、ふんだんに出てきます。内容も、ファンタジーやSFものといえば聞こえは良いですが、荒唐無稽だと思う人もいるでしょう。

知性と教養の厚みが半端ではないので、シリアスで、哲学的な小説を書こうと思えば書けるはずなのに、子供でも読めそうな平易な文章で、コミカルなものを書かれるのは、なぜなのだろうと、はじめて読んだ時は素朴な疑問を持ったものです。

その疑問は、小説の中に出てくる序文や前書き、解説文を読んでいくと、だんだん理解できたように思います。

文学作品として高い評価を得る作品は、人間の複雑な感情や社会の本質、孤独感、寂寥感、疎外感など、ネガティブなものをテーマにするものが、とても多いと思います。そういうものに真正面から真面目に取り組んで書かれたものが文芸作品として価値が高いのだろうと、僕もそう思っていました。

それはそれで間違いではないと思います。深見東州先生も、そのように思われていたようですが、いざ、小説を書こうと思い立った時に、疑問を持ったそうです。「果たして小説は、宗教、哲学、ノンフィクション以上に、人間や社会の本質を、正しく深く描けるのだろうか」と。

また、「描くことで、何らかの救いがあり、励まされるのだろうか。描けるかも知れないが、それは易経や論語、バイブル、仏典、コーランに勝てるものなのか。あったら学びたいので、ぜひ教えていただきたい。おそらく、ないでしょう。作家は、そこまで宗教、哲学、精神世界を極め、経済、政治などのノンフィクションを体験して学び、自分なりに極めたのだろうか。極めてないからこそ、小説家が、人間や社会の本質を描こうとするのではないか。そう思えてなりません。理解しているつもりでも、それは、本を読んで学んだだけで、実体験で、体得したわけではないでしょう」と思い至ったそうです。

この言葉は、深見東州先生のように、幼い時から今日に至るまで、ありとあらゆる体験と努力を積み上げてきた人だからこそ言えるのかも知れません。その体験を通じて、普通の人が思いもつかないような、人間の心の奥、意識の奥まで探究し、それを別な著作には書いてこられました。

あるいは普段の活動においては、人間や社会の深い本質に根差した活動を行い、人々を苦しみや行き詰まりから救っているのが実情です。いつもシリアスな問題に真正面から取り組み、社会のために役に立つ活動を実行してこられました。

毎日がそのような実態ですから、小説にまで、そんなシリアスな内容をテーマに書こうという気には、どうしてもならなかったそうです。その気持ちは、僕にでも何となくわかる気がしました。

深見東州先生は「人生には大変なこと、つらいこと、悲しいことがたくさんあります。それなのに、小説を読んでまで、暗い気分になることはないでしょう」と言われたそうです。やはり読後感が爽やかで、明るく楽しく、読んでいて前向きで幸せな気持ちになれるものが一番だと考えられているようです。

そうして、宗教にも哲学にも政治や経済にも、歴史学や心理学、科学にも真似できない、小説にしかできないものは何かを考えたそうです。

その結果、日本や世界の歴史からヒントを得られます。古来からの文学を見ると、それは「うた」と「ものがたり」に集約できると思ったそうです。

例えば日本でしたら、神話や伝承による物語がたくさん残っていますよね。狂言や能にも、素晴らしいものがたりがあり、それをベースにして舞台があります。そして、それらの「ものがたり」に芸術性の優劣などは無く、長く人々に愛されて残ってきたもの、長きにわたって市場価値があるものに、高い芸術性があるのではと思ったそうです。

実は、そのことについて深く掘り下げた論文「美術と市場」では、超一流大学で博士号を取得されています。いずれその論文の内容についても紹介したいと思います。

もう一つの「うた」については、日本では古くから短歌や連歌がありますね。俳句や詩文なども「うた」に属しているといえます。それらは文体の美しさやリズム、言葉の調べがいのちであり、そこから生まれる詩心や詩的な世界が美しく、文章を通して感じる作者の魂が高貴で感動的なものであれば、立派な文章芸術だと思ったそうです。

古典の名作には、人間や社会の本質を描いたものもたくさんありますが、多くの実体験をもとに、そこから出てきたヒラメキやイメージをもとにしたいきいきとしたストーリーと、文体や言葉の調べも素晴らしい作品ががたくさんあり、それが小説の芸術性ではないかと感じたそうです。

そんな深見東州先生の考えを知ってから、再び戸渡阿見作の小説や詩集を読むと、なぜ、このような文体やものがたりを描かれているのかの、その一端が、少し理解できる気がします。

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